十章  現代の諸問題(Contemporary Issues

D.Boaz : Libertarianism A Primer の第10章よりの翻訳(邦訳「リバータリアニズム入門」の未収録文)

古村治彦 翻訳

2000/08

 

 

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「いかなる人間にとっても、自由(freedom)は善である」とする概念は、私たちが何の異論もなく受け入れることができる唯一の概念である。一方、私たちが生きている現実の社会には、家庭崩壊、環境破壊、暴力犯罪などの諸問題が氾濫している。こうしたことから、自由という概念を突き詰めていくと、社会に氾濫する諸問題を解決する場合には、政府はいかなる役割も果たすべきではない、という結論が導き出される。多くの人々はこの結論を受け入れることができず、リバータリアンになることを諦めてしまうようだ。

しかしながら、それでも結局、人々はリバータリアニズム(Libertarianism)を支持することになるだろう。何故ならば、政府は、社会に氾濫する諸問題を解決することができないからだ。それどころか、実際には、政府自身がこれら諸問題の発生原因となってしまっている。リバータリアニズムは、それに対して、民衆に対して強制的な存在でしかない現在の政府と比べても問題解決に向けてのより良い枠組みを提示することができる。そこで、これから、その枠組みを議論する。

もちろん、私たちがこれから議論する枠組みは、決して、政策上の、もしくは上記した社会的諸問題に対しての、リバータリアニズムが提案するいくつかの解決策を押し売りするためのものではない。この章の後ろの方でも書くが、結局のところ、これら社会的諸問題の様々な原因について議論することは、それだけより多くの問題についてより深く議論することになる。

社会的諸問題への具体的な政策を扱っている本であっても、政策上の議論の全てに対して焦点を当ててはいない。公共政策に対するリバータリアニズムからのアプローチは、決して机上の空論などではなく、実際に多くの問題に応用することができる問題解決の技術なのである。

この章における提案の多くは、「オムレツを、卵をかき混ぜる前の状態に戻そうとする(unscramble the omelet)試み」即ち、「肥大化した政府が原因となって、現実世界で発生している多くの諸問題」に対して、リバータリアニズムが掲げる諸原理を応用しようとする試みなのである。私たちの目的は、ただ単にリバータリアニズムが目指している目標を明らかにすることではない。それよりは、もっと大きく、本来の自由社会、という私たちが目指すべき大きな目標に導く道を明らかにすることに他ならない。

私たちは、次の3つの要素をはっきりさせることから議論を始めることができる。その3つの要素とは、人々を、リバータリアニズムの考えに対し、懐疑的にし、何でも政府主導の方が、社会的、経済的目的が達成されやすいのだ、とする考えを支持するように仕向ける諸要素である。

まず一つ目は、「自由社会がどれほど豊かに発展してきたかを、人々に認識させないようにすること」である。それらの諸問題とは、貧困、環境汚染、そして人種差別などである。それでもなお、私たちは、経済やその他の分野で人類が、本当の進歩を遂げてきたことを見過ごしてはいけない。私たちは、この本当の進歩を、自由市場(free markets)と、法の支配(the rule of law)を通して認識するのである。

二つ目は、「真実をスナップ写真的に見ること」である。社会の特殊な部分を見過ぎてしまうと、「問題を解決するために、今すぐ行動が必要だ」と、私たちは思ってしまう。しかし、私たちには、その前に慎重になって、経済的、社会的変化を引き起こす「様々な過程」を理解する必要がある。私たちは、AT&T社が、4万人もの解雇者を出したと聞くと不安を抱く。しかし、アメリカの各企業が、昨年1年間で、総計で200万人分の雇用を創出していることを、私たちは知ろうとしないのだ。

三つ目は、「家父長的温情主義的(Paternalism)について」である。私たちは、自分の周りの人々が、賢い優れた人生選択をすることなど出来ない、とする見方を余りにも広く受け入れている。それどころか、私たちは、政府に向かって私たちの代わりにもっと「私たちの人生に関して上手な決定を行うよう要求」したりする。

私たちの多くは、他の人々が彼らの子供たちにとっての良い学校を選ぶことができず、適切な薬を選ぶこともできず、合理的な経済的決定を行うことすらできないのではないかと心配してしまうのである。こうした誤った考えに留意しよう。そして、個人の責任(individual responsibility)、財産権(property rights)、法の支配(rule of law)、競争による意思決定(competitive decision making)などの大切な諸原理とを心に留めよう。そうすることで、私たちは、これから、現代の政治的諸問題とそれらの解決法について緻密に論究することができるのである。

回復した経済成長(Restoring Economic Growth

1990年代を生きる多くのアメリカ人にとっての、最大の関心事は、経済成長を維持し、促進させることである。何故、現在、アメリカが繁栄しているのか、2つの重要な問題点を指摘しよう。

一つ目は、私たちは、今、これまでの人類史上の、あらゆる国民が手にした富よりも、もっと多くの富を所有しているということである。私たちが持っている富の中には、より改善された健康状態と、より快適になった生活環境が含まれる。他の資本主義的、民主政の国々(capitalist democracies)に住む人々もまた、人類史上、最高レベルの生活水準を達成し享受している。しかし、居住空間の面積と消費財の質の面では、ドイツと日本の平均的な国民は、アメリカの平均的な国民に比べて、30%は劣っているだろう。

二つ目は、政府と市場過程とが調和していないせい、つまり、政府が市場過程に不当に介入し過ぎるせいで、私たちは、もっと豊かになれるはずであるにもかかわらず、現状の水準で我慢しなければならない、ということである。最低限の収入と富しか手にできない人々、つまり貧しい人々は、政府が市場過程に介入することで生じる損失を、特に痛切に感じている筈だ。

良いニュース(The Good News

最初に、一つ目にあげた問題点について考えてみよう。1990年代に入ると、私たちは次のようなことを嫌と言うほど耳にするようになった。それは、少しも上昇しない賃金、中産階級の没落、そして、各世代が各々に持つ不安感を表す言論などである。ベビー・ブーム世代(baby boomers)は、彼らの親の世代よりも裕福になれない。X世代(Generation Xers)は、ベビー・ブーム世代よりも裕福になれないらしいのである。資本主義という経済体制の功罪について論じるが、私たちは次のことを忘れてはならない。それは、資本主義は、産業革命以来、それまでの世代の人々が、とても想像することすらできなかったほどの生活水準を達成してしまったのである。現在、多くのリベラル派の評論家たちは、しぶしぶではあるが、資本主義について、1970年までは、アメリカでは、生活水準がどんどん向上していったので、その功を認めている。しかし、同時に、彼らは、ここ20年間、賃金が少しも上昇しなかったし、それに伴って、生活水準が低下し始めている、とも主張している。ダラス連邦準備銀行(the Federal Reserve Bank of Dallas)のW・マイケル・コックスと、『ダラス・モーニング・ニュース』紙のリチャード・アルムは、この評論家たちの主張に対して、批判的な見方をし、彼らとは異なった主張を行っている。その内容は、次の通りである。

    確かに、1970年代中頃から、労働者の平均時給は少しずつ低下している。しかし、

  賃金の支払い総額は、ゆっくりと上昇し続けている。過去20年間、労働者たちは、

  健康保険、住宅手当、その他の付加厚生給付など、時給に含まれない賃金外収入を得

  ることで、1970年代より前の労働者たちよりも、総額ではより多くの賃金を得てきた。 

    それでは、私たちは、過去の人々よりも長時間働いているだろうか? その答はノー

  だ。1950年に、平均的なアメリカ人は、年間1903時間も働いていた。しかし、労働

  時間は、1973年には1743時間、1990年には1562時間へと減少している。また、私 

  たちの一生における労働年数も徐々に短くなっている。昔に比べ、若者が働き始める

  年齢が上がり、退職する年齢が早くなってきている。その結果、平均余命の伸びもあ

  り、退職後の人生が長くなっている。

    消費財についてはどうであろうか? 消費財は、実生活における経済活動を分析する  

  ことができる重要なポイントである。私たちは、ドル紙幣そのものを稼ぐためにでは

  なく、より多くの財やサービスを購入するために働く。コックスとアルムの主張によ

  ると、1970年から1990年の間に、消費財の質の変化を、私たちの生活水準を構成す 

  る諸要素の中に見ることができる、ということだ。

具体的な数字で見ていこう。新築住宅の平均床面積は、1500平方フィートから2080平方フィートへと広くなった。カラーテレビを保有する世帯の割合は33.9%から96.1%へと増加した。ケーブルテレビに加入している世帯数は、400万から5500万に増加したし、ビデオを保有する世帯は、0から6700万に急増した。1970年には、電子レンジを持っている人などいなかったが、1990年には人口の79%もの人々が電子レンジを持っている。 

では、こうした実生活における経済発展から、貧しい人々は取り残されてきただろうか? 言葉そのものの定義から、貧しい人々とは、貧しくない人々よりも、相対的に財産を所有していないということである。そして、この所有していないということ自体が、人々がより豊かになろうとする動機となる。しかし、ある製品が開発され、その後、値段がどんどん下がると、それらの製品は社会に広く普及するようになる。

1971年、貧しい世帯の内の50.2%が、衣料乾燥機を保有するようになった。1971年には、全世帯の83.3%が冷蔵庫を保有した。1994年には、貧しい世帯の内、97.9%もが冷蔵庫を保有するに至った。1971年には誰も電子レンジとビデオを持っていなかったが、1994年までに、貧しい世帯の60%がその両方を保有するようになった。また、1994年時点で、貧しい世帯の92%がカラーテレビを保有している。しかし、1971年の時点では、全世帯の43%しかカラーテレビを保有していなかった。1970年には、アメリカの全世帯の6.9%の家で、まだ上下水道が完備されていなかったが、1990年には、その数字は、たった1.1%にまで減少したのである。

今日のアメリカ国民は、歴史上の、あらゆる国民よりも、より豊かで、より健康で、より快適な生活を営んでいる。このような経済成長を「奇跡」と呼ぶ人々がいる。しかし、財産権(property rights)と法の支配(rule of law)が守られている世界では、人々が強制されることなく、生産し、取引できる時には、経済成長が達成されるのは、当然のことだ。こうした経済成長を奇跡的だ、と人々に思わせる原因は、まさしく財産権と法の支配が守られている世界と、その歴史の中になる。これまでの歴史から見ても明らかなように、アダム・スミスが主張した、自然的自由(natural liberty)の簡潔なシステム、即ち、市場システムは、国家権力(政治権力)によってこそ、抑制され、破壊されてきたのである。

悪いニュース(The Bad News

ここまで論じてきたように、生活水準が向上したことは明らかである。しかしながら、1990年代を生きるアメリカ人たちは、常に不安を抱えている。それは、生活水準が、彼らが望むほどのスピードでは上昇していないからだ。そのため、今の子供たちが大人になった時に、親たちである私たちと同じような生活レベルを維持できないのではないか、と現代のアメリカ人たちは感じているのだ。私たちは、「生活水準は、自然と上昇していくようなものではない」ということを忘れてしまっているのではないか? 一生懸命に働くことと、資本を蓄積することでしか、生活水準は向上しないのである。

私たちは、これから先も向き合い続けねばならない問題を抱えている。それは、経済成長の鈍化という問題である。新しい消費財が次々と登場しているにもかかわらず、アメリカの経済成長率は、急激に鈍化してきた。具体的に見ていこう。1973年から1990年にかけて、アメリカ合衆国の1人当りのGNPは、毎年1.5%しか上昇しなかった。一方、日本のGNPは、同じ期間に、毎年3.1%も上昇し続けた。労働者1人当りの実質生産高は、1947年から1973年までの間に2倍になったが、その後は成長が止まってしまった。従って、1973年以降、労働者1人当りの給与は、以前の水準の1.2倍しか上昇してこなかった。

それでは、どうして経済成長は鈍化したのだろうか? この問いに対して経済学者たちや経済分析の専門家たちは、ありとあらゆる種類の解答を示してきた。その中で、確実に言えることは、この問題は複雑であり、簡単には解決できない、ということだ。しかしながら、経済成長の鈍化を招いた、最大の理由は、政府が、市場の生産的な取引の過程に、徐々にではあるが、課税をし、規制を課し、干渉してきたことなのである。

市場での交換は、原材料をより効率的に使用するように、私たちの経済活動を導いている。同時に、市場での交換は、消費者たちの需要を満足させる。自発的な交換に干渉する行為は全て、原材料を使用する際の効率性を減退させてしまう。公務員たちが、原材料を使用しようと考えたら、彼らは、まず、財やサービスを稼ぎ出した人々から、それらを税として取り上げてしまう。その際、公務員たちが、原材料を、消費者たちが満足するように、効率的に使用するようなことはまずありえない。公務員たちよりも、民間の人々の方が、原材料をより効率的に使用する。政府による規制によって、人々が、価値を生み出す取引を行うことを禁止されるような場合、経済が生産的でなくなるのは避けられない。

社会の成員全てにとっての財やサービスである、社会全体の富(widespread wealth)、即ち、公共の富は、市場において、個人が他の人々と共同で生産し、取引することで生み出されている。政府は、これら公共の富を生産した人々から収奪するという方法でしか、原材料を手に入れられない。過去数十年間、政府は、民間から多くの富を奪ってきた。政府が、生産部門から収奪したものを算出する方法はたくさんある。例えば、所得税率と政府の全支出との関係を計算する方法がある。また、政府支出の対GDP比を計算する方法がある。しかし、このGDP算出式の分子にも分母にも、政府が財やサービスを購入するという行為が含まれているので、二重計算になってしまう恐れがある。

そこで、ケイトー研究所(the Cato Institute)の研究員ディーン・スタンジェルは、より正確な算出方法を考案した。その算出方法とは、連邦、州、地方など全てのレベルにおける政府の支出が、アメリカ国民全体が生み出した富の中で、どれくらいの割合を占めるかを算出するという方法である。課税や借入といった方法で集められた政府の予算は、つまるところ、民間生産部門からその元となる金を引き出し、政治的な命令、指示に従って支出されていることになる。スタンジェルの計算方法は、私たちが「政府による収奪一覧(Government Depredation Index)」と呼んでいる次の一覧に酷似している。政府による収奪の占める割合が50%を越えた時期と、その時期の経済が劇的に停滞していることとの因果関係に何か疑問を差し挟む余地があるだろうか? 政府が、労働者たちの生産した富の50%以上を収奪することを止めたら、どんなに力強く、生産的な経済が出現するかを想像してみて頂きたい。

政府支出を調査することは、また、私たちの利益になることである。アメリカ合衆国における全てのレベルの政府、連邦政府、各州政府、全地方自治体は、合わせて、年間26千億ドル(約280兆円)、つまり2,600,000,000,000ドル(約280,000,000,000,000円)も支出しているのだ。この金額は、アメリカ合衆国内全ての農地に加えて、合衆国のトップ100の大企業の株式全てを購入することができる金額である。また、この金額を1世帯あたりに換算すると、毎年約24千ドル(約260万円)も支出していることになる。次の一覧は、この数値が上昇しているということを示している。もちろん、この数値は、インフレーションを考慮に入れて調整してある。これだけの支出に見合うだけの見返りを政府から受けている世帯などアメリカには存在しない筈だ。

しかし、ロナルド・レーガン(Ronald Reagan)大統領が述べたように、このお金全てが「浪費され、騙し取られ、乱用され」ていると思い込んでもいけない。連邦政府の予算の中には確かに、本当に価値のあるものに支出されているものもある。その内容は、国防費、高速道路網整備費、健康保険費、気象予報関連費、そして退職者年金などである。しかし同時に、政府支出の中には、商業助成、薬物取締、そして高コストを維持するための規制といった、私たちの生活を脅かすプログラムも含まれる。政府支出が削減されると、その減税効果で、人々が自動車や衣服や休暇に多くの金を使うとは俄かには信じられない。例えば、政府が、最大のプログラムである社会保障を提供しないということになると、アメリカ人たちはそれぞれ自分たち自身で、退職後に備えてどれくらい金を貯めるかを決定しなければならなくなる。地方政府が学校教育を提供しないということになると、親たちは、税金で徴収されない金のいくらかを教育に支出しなければならなくなる。

リバータリアニズムの主張は、「政府の支出全てが価値のないものである」というものではない。しかし、リバータリアニズムの主張は、官僚による独占からよりも、市場での自発的な取引から、人々は、より良い、より安い価格で、より質の良い財を購入することができるとするものである。

8章で議論したように、政府は、規制を課すことで、経済成長を鈍化させている。ロチェスター大学の経済学者トマス・ホプキンズは次のような試算をしている。政府の規制が私たちの経済に強いている負担は600億ドル(約65千億円)であり、この数字を政府収奪一覧(GDI)に照らし合わせてみると、政府は、私たちの生み出した、社会全体の富の実に55%をも収奪し、経済を減退させているということに私たちは気づかされる。

経済成長を回復すること、つまり、ちっとも上がらない賃金を上昇させ、生活水準を上昇させ、「今よりも、未来はもっと良くなるのだ」と、アメリカ人たちが自信を回復する方法は、政府の規模を縮小し、アメリカの富を、それを生み出した人々に返還することである。政府の規模を縮小するいくつかの特別な方法については、この章の中で議論するが、基本的な原則ははっきりしている。それは次の通りである。

1、政府の各事業の民営化

2、政府の支出、借入、課税の削減

3、市場過程における規制の緩和

4、人生における重要な決定を自分自身で下せるように、個人の権利の回復すること

こうしたことが、個人の自由と経済成長の両方を達成するための、小さいけれども、重要な道となる。私たちは、この道をどれくらい歩くことになるのか? この問いに対する答は、私たちが市民社会(civil society)と市場過程(market process)をどれくらい信頼しているかにかかっている。リバータリアンたちは次のように主張している。私たちは、最小限の政府という目標に向かって長い道を行くことができるし、そうすべきだ、と。言い換えると、警察、裁判所、国防力による私たちの諸権利の保護以外、政府の役割は存在しないというものだ。逆に言えば、「財やサービスを生み出す際に、政府の官僚制による方が、競争市場よりも効率的である」などということを、私たちは断じて信じてはならないのだ。

働く者の尊厳と、生産という美徳と、経済成長の拡大を尊重すること、全ては、ある1つの政策によって達成される。その政策とは税率を引き下げることだ。第9章まで議論したように、政府とその取巻きの知識人たち(court intellectuals)は、たいてい、次のような方法を用いて、納税者たちを混乱させようとする。それは、税負担を1つの税から他の税へ、また納税者のあるグループから別のグループへ移行させることで、徴税による負担増を見えなくすることである。均一税(flat tax)、累進税(graduated tax)、物品販売税(sales tax)、奢侈税(luxury tax)などの間には、内容的に、確かに大きな違いがある。しかし、リバータリアニズムの基本的な課税政策は、とにかく全ての人々の税金を「減らす」ことだ。

私たちの政府は、どれくらい税金を減らすことができるだろうか? リバータリアニズムの目的は、強制から解放された社会である。納税は強制ではない、と考える読者たちは次のようなバカげた主張をするだろう。「所得税を払わないと決めた人々に対して、連邦政府が査察、罰金、投獄といった法的な処罰を課さないと宣言したとする。それでは、連邦政府はどれほどの税収を得られるだろうか、ほとんど見込めないだろう」 政府の税制に対して物分かりの良い振りをする人々が、私たちの納得できるような対案を提示できない理由は次の通りだ。それは、私たちアメリカ国民が、稼いだ金の半分以上を喜んで政府に与えようとはしないことを、彼らはよく知っているのだ。よって、有効な対案を提示できないのだ。

徴税が強制的である以上、リバータリアニズムの究極的な目標は、国家による徴税制度を廃止するということになる。私たちは、警察、裁判所、そして国防力といった政府の合法的な機能にどれくらいの金を支払うべきなのか? この問題に対して、いくつかの解答があるが、その内のどれも私たちを満足させるものではない。私たちが、ここで提示できる、最善の解答は、次の通りである。それは、私たちが正当だと考える、政府の機能を運営できるくらいにまで政府の支出と税収を削減する、というものだ。そうすることで、おそらく、強制的な徴税制度を廃止することができる。おそらく、繁栄するリバータリアン社会の人々は、彼らの諸権利を擁護し、かつ自分たちを放っておいてくれる政府に対して、彼らの収入の5%を税金として、進んで支払うだろう。

ビジネス、宗教、地域共同体など、市民社会における諸団体、諸法人は、それぞれに必要な収入を、補助金に頼らず、自らで稼ぎ出すことができるだろう。リバータリアニズムの目的は、個人の自由を極大化し、強制を極小化することである。つまり、近隣に住んでいる人々や諸外国の軍事力からの攻撃から私たちを守ることを目的とし、その対価として、人々の収入の5%を税として徴収する政府は、現在の金のかかり過ぎる国家よりもリバータリアニズムの考えに近いものとなる。

予算削減(Cutting the Budget

リバータリアンたちは、地方、中央の区別なく、全てのレベルでの政府支出を削減したいと考えている。この章では、私は、政府の各事業を民営化したり、廃止するための様々な方法について議論する。政府の各事業を再検討することは、明らかに、政府予算を削減することにつながる。ここに、支出を即座に削減することができる23の提案をしてみたい。

一つ目に、「企業に対する保護政策の廃止」である。連邦政府は、個別の企業に毎年約7500億ドル(約81兆円)の助成金を支出している。更に、各州政府、各地方自治体は、その各企業に、更に補助金を出している。消費者たちに対して良いサービスを提供している企業であれば、助成金などなくてもうまくやっていける。言い換えるならば、助成金を必要とする企業は存在すべきではないのである。

二つ目に、「農業に対する保護政策の廃止」である。企業に対してと同じ原理が連邦政府による農業助成プログラムにも当てはまる。連邦政府は、このプログラムに年間1500億ドル(約16兆円)も支出している。企業と同じように、農家も自由市場の中で競争すべきだ。

三つ目に、「国防に対する必要な額だけの支出」である。冷戦が終結し、ただ1つの超大国となったアメリカ合衆国は、現在の軍事費の半分で、十分に国を守ることができる。具体的な数字で言うと、毎年約12千億ドル(約130兆円)で十分なのである。

四つ目に、「不必要かつ、私たちの生活を脅かす連邦政府の諸機関の廃止」である。私たちアメリカ国民は、約200年間、連邦教育省などなくても、子供たちの教育を何とかうまくやってきた。それなのに、1979年に連邦教育省が創設されて以来、アメリカの教育水準は、悪化し続けている。連邦エネルギー省は、当然であるが、エネルギーそのものを創り出すことはできない。連邦商務省は、各企業の商業活動を妨害している。薬物対策委員会(the Drug Enforcement Administration)は、薬物の違法使用を止めることができず、それどころか、その存在自体によって、薬物禁止が理由で引き起こされる犯罪を数多く生み出す結果となってしまっている。連邦運輸省は、民間、もしくは地方自治体が金を出すべき輸送計画に対して、無駄な助成金を支出している。

五つ目に、「社会保障の民営化」である。私は、この章で、この社会保障について更に細かく議論しなければならないと考える。このことは、納税者たちにとって、大きな利益となるだろう。もっと重要なことは、この社会保障の民営化は、アメリカ人たちが退職後に頼りにするシステムの最終的な崩壊を防ぐことになる。

六つ目に、「政府の事業や資産の民営化」である。アムトラック(Amtrak、全国鉄道旅客公社)からTVATennessee Valley Authority、テネシー川流域開発公社)、また、国有地から郵政事業までといった、広い範囲にわたる、政府の事業を民営化するべきだ。ここでも基本的な主張は次の通りだ。民間の人々は、政府に比べ、原材料をより注意深く、より効果的に使用する。よって、この経済的効率性から、私たちは利益を得ることができる。納税者たちも利益を得ることができるのだ(Savings to taxpayers are just icing on the cake.

連邦議会と各州議会は、長期間にわたり、政府予算を削減してきた。しかし、彼らは、政府の抱える本当の課題に本格的に取り組んでこなかった。この本当の課題とは、警察力、裁判所、国防力を通じて、私たちの権利を守ることである。限られた原材料しかない、と不平不満を述べ、税率を簡単に引き上げようとする政府は、不必要な支出に対して、自ら厳しく反省し、見直すことなどできはしない。連邦議会が、予算を削減することによって、多くの納税者たちは利益を得ることができる。また、政府の機能縮小から、好景気は始まるのである。しかし、政府の各事業を廃止する理由は、何も予算上の問題を解決するためばかりではない。その理由は、個人の自由と責任を拡大するため、そして市民社会を自由化し、活性化させるためでもあるのだ。

退職後の生活保障(A Secure Retirement

連邦政府が行う最大の事業は社会保障である。これは国防事業よりもはるかに規模が大きい。社会保障費は、1995年に、334億ドル(約36千億円)も支出されており、2000年には、433億ドル(約47千億円)にまで膨れ上がると予想されている。連邦福祉予算の合計は、750億ドル(約81千億円)であり、これは国家予算の総額の約半分を占める金額だ。利子の支払いを除いても、この額は、予算の半分以上を占める。各先進国において、政府の主要な活動は、様々な利益誘導事業を通じて、金を、ある人々から他の人々に移転させるというものだ。しかし、同時に、財政赤字と国の各事業を、もうこれ以上支えきれない、という認識が、各先進国に住む人々の間に、急激に広がっている。各国政府は、国民に対して、できもしない約束をしてきた。その結果、現実には、急上昇する税金、経済の衰退、世代間闘争(generational warfare)などが持ち上がり、そして、これら不安要因の結合が起こったのである。

社会保障制度が1935年に創設された時、社会保障制度は人々にとって、素晴らしい制度のように思われた。その具体的な利点とは、老人たちに様々な恩恵を与えることができ、税金が安くなり、20年から30年間にわたって、政府が高額の支出をしなくても済むことなどであった。人々は、長年、税金を支払うことによって、自分のための社会保障を自分で「稼ぎ出している」のだ、と信じてきた。実際のところ、各種税金は、社会保障制度を維持するのに十分ではなかったが、このことは、何十年間も問題にされてこなかった。それは、税金を支払う人の数が多く、社会保障制度によって補償される人の数が大変少なかったからだ。選挙のある年には、連邦議会は、福祉のバラマキを増加させた。(Every election year Congress raised benefits.)その結果、連邦議員たちは、その時その時の選挙民たちの多くを幸せにしたが、深刻な問題を未来に先延ばしにしてきたのだ。

イギリス人の経済学者ジョン・メイナード・ケインズ(John Maynard Keynes)は、彼の主張した政策の、長期的な効果に対しての批判を無視した。その批判とは、「ケインズの言う長期間、私たちは死んでいるようなものだ」というものであった。社会保障制度に関する限り、確かに、「長期間」に関する批判は当っている。ケインズは既に死んだ。それなのに、私たちは、「長期間」、彼の教義に忠実に従ったままである。

現在、他の世代よりも人数が多いベビー・ブーム世代の人々が働き盛りである。よって、社会保障制度は、彼らの納める税金によって、収入が支出を超過している。社会保障制度は、会計学の用語で言うところの「余剰」で運営されている。この収入超過による「余剰」は、政府公債全体に「投資」されている。この政府公債の実体とは何か。それは、債務者たちに対して、徴収されると見込まれる税収の中から借金を返すということを紙の上だけで約束しているに過ぎない紙切れのことなのである。1999年には、医療保険や身体障害者保険を含む、社会保障関連複合信託資金を政府が支払わなければならなくなる。よって、政府は、借入を増やしたり、税金を引き上げたり、他の支出を削減しなければならなくなった。2001年までに、医療保険に関する信託基金は、破綻してしまう、と予測されている。15年後の2012年までには、社会保障に関する主要な信託基金は運営する上で赤字を生む結果になるだろう。そして、2029年には、累積赤字によって、信託基金自体が破綻してしまうだろう。 

政府の社会保障制度の主任保険数理士をしていたA・ヘイワース・ロバートソンは次のような試算結果を発表している。現在、社会保障費は、納税勤労者たちの収入の15%を占めているが、21世紀半ばには、26%から44%に増大する。アメリカの労働者たちが社会保障費に必要な税金を進んで支払うとは考えられない。

著書『堅実さへの転換』の中で、フィリップ・ロングマンは、これまで論じてきたことを上の分かりやすい表にしている。この表から、生まれた年を基にして、ある人がこれから先、得られるであろう、社会保障給付金や医療保険給付金(medicare)を予測することができる。

政府の各事業もそうであるが、そこには大きな問題が存在する。この大きな問題とは、社会保障制度の考案者たちが未来について全く考えなくて良かったこと、そして、彼らには、社会保障制度を財政的に健全なものにする必要がなかったということである。1935年、連邦政府職員の定年退職年齢は65歳であったが、当時の平均余命は61歳であった。現在、平均余命は76歳となり、この数字は年々伸びている。一方、退職年齢は早くなり、人々は、退職後にこれまでより長い年数生きるようになっている。1950年には、1人の年金受給者を16人の納税者たちで支えていたが、現在では、その比率は3.3対1となっている。2030年には21にまで下がると予想されている。

こんな制度をいつまでも維持できる訳がない。私たちは、社会保障制度と私たちの生活を大きく変化させる必要がある。中産階級のための福祉国家が、崩壊するのは必至である。そこで、ロングマンが主張しているように、私たちは、これから、ある種時代遅れの美徳に目を向けるべきであろう。「節約」をしよう。何故なら、私たちはもっと貯蓄をしなくてはならなくなるからだ。「家族」を大切にしよう。何故なら、政府は約束など守らない、ということが暴かれたので、私たちには、お互い頼る必要が出てきたからだ。そして、まじめに「仕事」をしよう。何故なら、平均余命が伸びていくにつれて、私たちはより長い年数、働かねばならなくなるからだ。

しかし、時代遅れの美徳と同様に、重要な政策的な解決策が存在する。それを採用することで、社会保障と経済的混沌と、必ず起こるであろう世代間の争いなどを防ぐことができる。それは社会保障制度の民営化である。社会保障制度は財政的に不健全である。その理由は、政治家たちが社会保障制度を運営しているからだ。源泉徴収制度によって、労働者たちは、金を確実に政府に納めさせられ、政府は、その金を退職者たちに、ポンと渡すことができている。連鎖する不幸の手紙やポンジ計画(a Ponzi scheme、ネズミ講)のように、源泉徴収制度は、実際のところ、金を最初に受け取る人には多く支払われ、後からの参加者は、金を出すだけで損失を蒙るだけの制度である。退職後の生活を支える健全な制度は、「貯蓄」と「投資」の上に確立されなければならない。労働者たちは、退職後に備えてある額の金を貯蓄し、その金を新しい富の創造のために投資すべきだ。その投資先は、株式、公債、投資信託、その他の投資商品であり、これらに使われる金は、他の人々に直接的に渡るような種類のものではない。このような貯蓄は、投資という形で、経済成長に参加することで利益を得るのである。

私たちは、現代の社会保障制度が抱える問題を、IRAIndividual Retirement Account、非課税の個人年金積立)プログラムが急速に拡大した結果だ、と捉えている。このIRAプログラムとは、基礎的な給付である2000ドルの他に、社会保障費全額やそれ以上の金を、税金が免除されている退職者たちに、与えるプログラムである。このようなプログラムは、現代の若年労働者たちに、「年寄りたちに、実際に社会保障制度が約束している利益よりも、より多くの金を与えているだけではないか」という疑いを惹起させ、「民間部門の方が約束をちゃんと実行しているではないか」と思わせている。それは、民間部門が、投資と経済成長に基礎を置いているからである。

財政アナリストであるウイリアム・G・シップマンは次のような試算をしている。1970年生まれの労働者1人当りにつき、社会保障税を支払うことによって保障されている退職後の年金の最高限度額は、1995年のドル水準で、1ヶ月に1,908ドルでしかない。その彼が社会保障税として支払っている金を、株式市場に投資したとすると、彼は、退職後に、毎月11,729ドルも得られると予測される。年収126,00ドルの低賃金の労働者は、現行の他社会保障制度によって、退職後に、毎月769ドルしか保証されない。株式投資による民間の退職者年金制度によって、その低所得の人は、毎月2,419ドルも得ることができると予測される。もしくは、自分の貯蓄の利子からだけでも、2,419ドルには及ばないが、そこそこの金を手に入れることができる。そして彼らは、子供たちに、まとまった額の財産を残すことができる。株価は上がりもするし、下がりもする。そして、株式市場は暴落することがある。しかし、人々が働いている間には、株式投資は、経済成長に伴って、概ね、成功するのだ。

似たような制度は、シンガポール、チリ、ニュージーランドで実行されている。そして、その成果は、際立ったものである。チリの労働者の90%以上は、現行の政府の年金制度から離脱することを選択し、民間企業に取引口座を設けている。競争状態にある各民間企業による、貯蓄を基にした個人退職後年金計画が実行されて以来、チリの経済は年率7%も成長している。

私たちは、1つの大きな間違いを犯してしまった。それは、退職後の生活保障という大切なものを、強制的で、官僚的な政治システムに移譲してしまったことである。私たち労働者は、政府が、安心できるだけの退職後の生活とその他の利益を与えてくれるなんて幻想に、もはや頼っていられない。人々は、政府ではなく、自分自身、もしくは家族に頼らねばならない時がやってきた。そのために、自由市場に投資し、経済成長に参加することによって利益を得なければならないのである。

国民の医療(Health Care

1992年に、クリントンが大統領に選出されて以来、国民の医療の問題は、アメリカにおける政策討議の中心となっている。各新聞は、現代の医療体制の抱える多くの問題を指摘している。国民全体の医療支出は、経済成長に比べ、2倍のスピードで増加している。1965年に、対GNP6%だった医療費は、1993年には、14%にまで膨れ上がった。それなのに、現在、3500万人のアメリカ人たちが健康保険に加入していないのだ。奇妙なことに、強制的で、官僚的な体制が破綻していることは明らかで、証拠もたくさんあるのに、これらの問題に対して提示される一般的な「解決法」はこれまで次のようなものでしかなかった。それは、もっと規制を強めること、もっと政府支出を増やすこと、医療産業の徹底的な国有化、といったものである。

医療についての諸問題の原因を直視することで、私たちは、より良い解決法を見つけとことができる。まず、原因を見ていこう。第一に、私たちは、アメリカ合衆国には、実際に、有効で、かつ多くの人々が利用できる医療制度が整備されていることを心に留めておくべきだ。問題も多いが、貧しい人々や保険に未加入の人々の大部分は、こうした医療制度の恩恵を受けられている。第二に、私たちは、CATスキャン、臓器移植、その他の技術革新など、医療分野における凄まじいまでの技術的な発展には、多額の金がかかるということを認識すべきだ。つまり、より良い医療体制を整備するには、多額の資金が必要なのである。第三に、平均余命が延び続けている。これは良いことではある。これに伴い、高齢者たちの多くが、医療費に多くの金をかけているという現状について、私たちは討議すべきだ。第四に、裕福な人々は、彼らの収入の大部分を、医療に投入している。私たちが食糧や衣服に消費する金額の対GNP比は年々低下している。それでは金はどこに消えているのか? その金の行先は、旅行、娯楽、そしてより良い医療など、私たちが進んで金を出す分野である。

しかしながら、アメリカの医療制度の運営コストは、現在でも上昇し続けている。私たちの国の医療制度には、1つの大きな問題がありそうだ。その大きな問題、即ち、現在のアメリカ合衆国の医療制度が抱える根本的な問題は、消費者が自分自身で決定を行っていないということだ。競争市場では、より良い製品は、より低コストで生産される。それは、市場参加者たちが、最低のコストで自分たちのニーズを満たそうとするからだ。しかし、アメリカの医療制度では、患者たちは医療産業に直接的に金を支払っていない。つまり、医療費1ドルにつき、76セントは他の誰か、例えば、政府や保険会社や雇用主が支払っているのだ。従って、患者の多くは、自分で考えて、医療費を賢く支払うことで利益を得るどころか、無駄に支払うことで、重大な結果を招いてしまっているのだ。

どうして患者たち、即ち、消費者たちは、医療費を自分たちで支払わないのか? この問いに対する解答を考えることで、私たちは、政府の介入による悪循環に気づく。この悪循環とは、1つの規制が、ある問題を引き起こすと、その問題に対しての新たな規制が作られ、そのまた規制が問題を起こし、それに対する規制が作られるといった具合の悪循環である。第二次世界大戦中、連邦政府は、紙幣を大量に増刷した。これによって、大規模なインフレーションが発生した。このインフレーションを抑制するために、連邦政府は、賃金と価格に対する統制を行った。賃金統制によって、各企業は有能な人々を雇用したり、賃金を上げることができなくなってしまった。その結果、人々の労働意欲は減退した。

そこで、各企業は、次のようなアイデアを考え出した。それは、従業員の賃金外収入として、健康保険を与えるというもので、これは、賃金統制では禁止されていなかったのである。戦後、この健康保険を賃金外収入とすることは確立された制度となった。そこで、連邦議会は、健康保険を被雇用者の課税収入とはしないことを決定した。この決定によって、他の企業も健康保険制度を導入し始めることになった。税引き前の給料と一緒に健康保険料を支払うことで、雇用主は、賃金の支払い総額を抑えることができた。また、被雇用者にとっても、自分で医療費を負担する必要がなかったので、悪い話ではなかった。

雇用主が健康保険料を支払い、その保険料が医療費の大部分を賄ってしまうので、患者たち、即ち被雇用者たちは、医療コストに無関心になってしまった。患者が直接支払わないとは言え、医者が、治療費として、20ドルも40ドルも請求するということに何か問題はないのだろうか? 1965年の時点でも、患者は医療費の17%を支払っていた。医療費の自己負担比率は、現在では約5%に低下している。それに反して、医療コストは急激に上昇している。

医療コストは、次のような要因で、上昇し続ける。政治家たちは、より多くの事例、例えば、アルコール中毒や麻薬中毒の治療、不妊治療、針治療、そして実験的な要素もあるエイズ治療などに保険を適用としている。しかし、保険の負担者たちや雇用主たちは、こうしたことを望んでいない。コストが上昇し続けているので、医療費を直接負担している雇用主たちは、コストを何とか抑えたいと考えるようになった。私たち11人は、毎日、自分の消費をコントロールしている。私たちは、いかなる場面においても、何を買い、どれくらい金を使うかを決めている。支出についての決定は、自分自身でよく考えた結果である。自分には、本当にこの新しいシャツが必要だろうか? 自分にとって、25セント余分に出してまでも、このLサイズのジュースは必要だろうか? 自分の自動車には、この動力ブレーキとサンルーフの機能は本当に要るのか? 私たちは、誰1人として同じ決定などしない。しかし、健康保険手当の専門家や雇用主のような第三者は、私たちが何をするかということを知ることができないのと同様に、私たちの選好を知ることができない。よって、彼らは、コスト削減という名目の下に、被雇用者たちにとって本当に必要な保険から切り捨ててしまう。その結果、被雇用者たちは、保険に関するコスト削減全てに反対するようになる。更に、彼らは、政府の規制を肯定するようになってしまう。

政治家たちは、ある種の医療行為にかかるコスト削減に反対している。例えば、政治家たちは、母親が、出産後二晩は病院で過ごせることを認める法律を成立させた。これは良い考えのように思える。しかし、新しく母親になる人が全て、自分で入院費を支払う代わりに、この制度に頼ったら、一体どれくらいの金が必要となるだろう? 一方で、消費者たちは、健康保険が自分の望むようなものになっていないことに気づいている。それは、彼らが、自分自身で直接、健康保険に金を支払わないことが原因である。つまり、私たちの健康保険は、同僚と全く同じ健康保険であり、一種類しかないということなのだ。

消費者たちが自分で直接、健康保険に金を支払うようになると次のようになるだろう。ある人々は、妊娠期間全て、心理カウンセリング、結婚生活に関するカウンセリング、針治療など、多くの医療行為を適用する保険を希望するだろう。またある人々は、適用の種類が少ない方を選ぶだろう。今でも、弾力性のある適用や、「カフェテリア」方式による旧計画では、被雇用者たちは、様々なオプションを選ぶことができる。しかし、一般的に、これらのオプションは、無料であるが、被雇用者たちに直接、金を給付する訳ではない。それは、カフェテリア方式による給付計画は、今だに、特別な保険適用を規制する1000を超える各州法に縛られているからなのだ。

消費者たちは、直接、保険に金を支払っていないので、何でもかんでも保障してくれるような計画を望み、多くの人々が政府に対して、保険に関する規制をもっと強めるように求めている。その結果、保険の適用範囲は広くなり、それによって、必然的に、保険料は高くなり、雇用主たちは、負担を感じ、健康保険のレベルを全体的に下げるか、保険適用を厳しく制限するか、もっと大幅なコスト削減をしなければならない、と考えるようになった。

保険適用を厳しく制限することやそれに類似した方法では、消費者たちの満足する医療行為など行えない。そこで、国の健康保険を改善しようとする気運が高まってくる筈だ。しかし、実際には、何の改善もなされていない。世界中どこに行っても、国の健康保険などというものは、消費者たちから取り上げるだけで何もしない、官僚たちによって運営されている。よって、その結果がどんなにひどいことになるか一目瞭然である。

イギリスにおいて、55歳以上の患者に、人工透析治療をすることは禁止されている。加えて、イギリス健康管理局は、喫煙者たちに対する医療行為そのものを、金がかかり過ぎるからという理由で、止めるように提案している。カナダでは、開業医の診察の後、専門医に診てもらうのに平均で約5週間もかかり、専門医の紹介を受け、外科手術を受けるのに更に日数がかかる。普通の開業医が診察し、その後、本格的な知慮を受けるまでにかかる日数は、オンタリオ州で約80日、プリンス・エドワード島では約147日もかかる。カナダでは、高価な医療危機の購入を控えることで医療費を削減しているのだ。カナダ全土(人口約2600万人)よりもワシントン州(人口約460万人)一州の方がMRIの数が多いし、ガン治療に効果のある放射線治療機の、人口を基にして計算した保有率は、アメリカがカナダの7倍である。スウェーデンでは、X線を利用した心臓病治療を受けるのに、11ヶ月も待たされる。フランスでは、1996年に、全ての患者の医療コストを調査し、国の定めた金額を超えて保険請求を行うような医者を処罰するという方法が、もう既に実行に移されているのだ。

私たちは、どうしたら、こんなにひどい悪循環から抜け出せるのか? 最も重要なポイントは、患者たちに、医療の主導権を返すことである。患者、即ち、消費者個人が、「自分は、どれくらいの医療費や健康保険で良いのか」を自分自身で決定すべきだ。ジョン・C・グッドマンとジェラルド・L・マスグレーブの著書『患者の力:アメリカの医療危機を解決するには』の中に、患者に決定権を移譲する方法について描写されている。その方法とは、MSA(Medical Saving Accounts)と呼ばれるものである。このMSAは非課税である。人々は、毎年あるまとまった金額をこのMSAに入金することが認められる。このMSAの中から、人々は、自分自身で医療費を払うことになる。MSAの、最も賢い使い道とは、「不慮の事故や病気に備える」ための高額な保険の資金の一部とすることである。その後、MSAに残された金を日常的な医療費の支払いに充て、高額な保険は、本当に大きな事故や病気の場合にのみ使うようにする。

このMSAを実行に移すことで、健康保険を本当の目的に引き戻すことができる。健康保険の目的は、不慮の病気に対しての備えである。定期的な健康診断や、症例数の少ない病気治療のための医療費を健康保険から支払うことは、自分の車のガソリン代と整備費を自動車保険の中から支払うことと同じだ。健康を維持することは、何も特別なことではないし、それにかかる金も日常の生活費の中から支出されるべきだ。健康保険は、自動車保険と同じように、実際の事故や病気、また大きな病気など、たくさんの金がかかり、その金を一度に支払うことができないような場合に対する備えとして考えられるべきだ。

現在、都市部では、雇用主たちは、平均して、1人の被雇用者とその家族の健康保険に、年間5200ドルも支出している。現行の福祉政策では、100ドルとか250ドルといった、少額の医療費しか控除されない。こんな少額の医療費など、被雇用者は、職場の健康保険に加入する前から支払うことができていた額である。では、3000ドルもの控除額が認められている「不慮の事故や病気に備える」保険はどうだろうか。平均すると、たった2200ドルくらいしか控除されていないのが現状である。患者が決定権を持つようになると、雇用主たちは、被雇用者たちの「不慮の事故や病気に備える」保険と、MSA3000ドルを支払うことになる。このコストは、雇用主たちにとって、現行の制度のコストと同じである。それならば、この方法の方がずっと良い。更に、被雇用者たちにとっては、年間の医療費を3000ドル以下に抑えると得をする結果になる。そうなると、全米の94%の世帯が得をすることになる。被雇用者たちは、自分のMSAに金を貯蓄したり、IRAに投資することができるようになる。すると、医療費を抑えることで、消費者たちのポケットに金が残るようになる。加えて、医療費を抑えようとすることで、健康的な生活をしようとする、という利点も生まれる。

しかし、もっと重要なことがある。それは、患者が決定権を持つことで、患者が、消費者として選択し、そして医療産業に対して、消費者としてコスト削減を求めることが可能となるのだ。消費者たちは、手続きにどれくらいの金がかかるか、それが必要なのか、もっと安くでやってくれる医者はいないか、など、ものを買う時と同じようなことを気遣うようになる。それは、浮いた金が消費者たちのものとなるからだ。1976年に、ランド研究所(the Rand Corporation)は次のような実験を行った。それは、患者に決定権を与えた場合どうなるか、どいう実験であり、次のような結果が出た。日常的な医療費の支出で比べてみると、医療費が無料だった人たちは、医療費の95%を自分で支払っている人たちよりも45%も多く医療費がかかってしまった。因みに、この2つのグループの健康状態は同程度であった。

医療費に競争原理を導入することで、私たちリバータリアンは、医療に対する規制を緩和させることができる。規制の具体例をあげる。国家資格制度によって、医者の数が制限されていること、低コストでも十分な治療ができる場合でも、補助的な医療従事者ではなく、専門医にかからねばならないことである。こうした規制によって、医療費は高くなってしまうのだ。経済学的に言うと、供給が少ないと、価格が上昇してしまうのだ。多くの研究は次のような結論を導き出している。助産婦、看護婦、カイロプラクティストといった、医師ではない医療従事者たちは、伝統的に専門医が行ってきた、医療行為を行うことができる。しかも、彼らの技量は専門医に劣らず、低コストで、患者たちに高い満足を与えることができる。しかし、医師法と連邦政府の様々な規制によって、彼らの活動範囲、即ち、彼らの行える医療サービスの方法は限定されているのだ。

これまでの議論をまとめる。私たちは、医療を市場原理に委ねるのか、それとも政府に任せるのかを決定しなければならない。科学的な経済分析から、また、市場や政府についての私たちの持つ生活実感からも、次のような教訓が導き出される。「市場は、官僚制に比べ、より柔軟性があり、技術革新も行われやすい。こうした理由から、市場は、私たちに、より良い財やサービスを提供することができる」というものだ。

人種間の緊張の緩和(Reducing Racial Tensions

読者の皆さんは、市場は、官僚制よりも良く機能し、小さい政府は経済成長を導くということに反対されないだろう。それでは、現在、私たちの生きている社会で起こっている諸問題については、どうお考えであろうか? 人種間の緊張、貧困、犯罪、そして下層階級の存在などの諸問題が絡み合って起こる社会的な病については、どうお考えであろうか? アメリカ国民の大多数は、夜間に外出することをひどく恐れる。また、アメリカ国民の一部は、「自分たちは、常に社会の主流から締め出されている」と感じている。表面上には現われないが、人種間の緊張や憎悪は高まってきている。ここからは、よりホットな問題、人種問題について論じていきたい。

アメリカで、白人たちは黒人たちをどのように扱ってきたか、については、次の3つの時期に区分される。約250年も続いた奴隷制時代。短期間、平等な取り扱いがなされた後の、19世紀末か1960年代まで続いたジム・クロウ(Jim Crow、黒人たちに対する差別、階級制度の総称)体制時代。そして現在。現在の政府の方針の特徴は、平等な参政権、福祉政策、そしてアファーマティブ・アクション(affirmative action、人種差別是正措置)といったものである。

この3つの時期に共通しているものは何だろうか? 搾取? 違う。差別? 一般的にはそう思われているだろうが、違う。これらに共通するものは、アフリカ系アメリカ人たちの人間性と個別性の否定である。1619年から1865年にかけて、白人たちによって考案された諸制度によって、黒人たちの個人としての諸権利は、ことごとく否定されてきた。体制として確立された、奴隷制は、白人たちが黒人たちを強制的に働かせ、その利益を得ようとした制度なのである。白人たちは、黒人奴隷たちをまるで、動物か、機械かのように扱った。リバータリアニズムを信奉しながら、同時に奴隷解放論者であった人々は、奴隷制を「人間の心も体も盗んでしまう行為」と呼んだ。その人々は、奴隷制を、人間らしさを盗む行為として見ていた。<