その1よりの続き

======================================

貧困層の解放(Liberating the Poor

貧しい人々、特にインナー・シティーに住む貧しい人々の置かれている状況は、現代のアメリカが直面している最大の問題の1つである。自由市場は、貧しい人々を置き去りにしているという非難は、リバータリアニズムに対してなされる非難の1つである。これまで述べてきたように、現代のアメリカに住む貧しい人々は、歴史上のどんな時代の人々よりも、物質的により恵まれた生活水準を享受している。これは疑いようのない事実である。貧困ラインより下に位置づけられている人々の内、40%はマイホームを所有しているし、92%はカラーテレビを所有している。彼らの平均余命は70歳を超えている。しかし、「過去よりも良くなっている」ということだけでは不十分なのだ。

アメリカには、確かに、悲惨なほどの貧困の中で生活している人々が存在する。彼らは、物質的な面よりも、希望の面で多くを奪われているのだ。つまり、貧しい人々は、隣近所で発生する犯罪の恐怖に脅えている。彼らには職がなく、生活が良くなる望みもない。彼らは、自分の子供たちが、将来、より良い生活ができるなんて思っていない。貧しい親たちの行動や生活を見ることで、彼らの子供たちは、「自分は、いくら頑張っても、何かを達成することなど有り得ない」という気持ちを抱いてしまう。こういう状況にある人々は、下層階級と呼ばれている。下層階級の人々が住む地域では、未婚の母の割合が80%を超え、そうした家庭には、父親がいない場合がほとんどで、福祉に頼りきりで、犯罪率が異常に高い。これまでも、貧しい人々は存在してきた。それなのに、現在の階層階級の置かれている状況は、たった20、30年間で、著しく悪化してきているように見える。傑出した社会学者ウイリアム・ジュリアス・ウイルソンは次のように描写している。「1940年代、1950年代のハーレムやその他のゲットーに住む黒人たちは、夏の暑い日に、公園、非常階段、屋根の上で寝ることを躊躇しなかった。そして白人たちは、インナー・シティーの酒場やナイトクラブに頻繁に出向いていた」 統計の数字などよりも、こうした歴史的な証言が、私たちに、インナー・シティーに住めなくなって、まだ1世代(a generation)、つまり30年も経っていないのだ、ということを気づかせてくれる。

多くの人々は次のように考えている。政府は、自分たちを助けるための様々な事業に、もっと予算を投入すべきだ、と。しかし、1965年に、「偉大な社会」(the Great Society)計画が開始されて以来、私たちは、様々な貧困対策事業に5兆ドル(約540兆円)以上も金を投入してきた。現在でも、年間300億ドル(約3兆2千億円)以上も投入している。しかし、問題は深刻化するばかりだ。総人口に占める、貧しい人々の割合は、第二次世界大戦の終盤から1960年代までは、劇的に低下したが、「偉大な社会」計画が開始されて以来、その水準が維持され、そして、そのまま現在に至っている。

今日の問題は、都市部の貧しい人々が、2つの罠にはまってしまっていることだ。一つ目は、最低賃金法と、職業の国家資格制度のような政府の諸統制によって、熟練度が低い労働者たちは、中々仕事に就けないということである。二つ目は、福祉事業は、働かなくても生きていける方法を人々に提供しているということだ。依存という罠にはまるのは容易だ。

明らかなことであるが、次の3つのことを行えば、アメリカでは誰も貧困ラインに陥らなくて済むのだ。高校を卒業すること。結婚していない関係で妊娠しないこと。初めて仕事に就く人々に対して、余り高額の賃金を支払わないこと。しかし、職歴を積み、熟練した人々は、安い賃金の仕事に長く就かないということ。政策立案者たちが現在直面している問題は次の通りだ。「どうやったら、私たちは、貧しい人々、特に貧しい若者たちが、貧困から抜け出させるような選択をしてくれるようい仕向けられるのか?」 私たちは、次のことをしっかり認識しなければならない。貧困を回避することができる、前述の3つの単純なステップは、周りにいる大人たちがほとんど働いていない環境に生きる、高校生たちにとっては魅力ではないということである。福祉は、彼らにとって、賢い選択である、と言うことができる。実際、1996年に行われたある研究は次のような結果を示している。それは、メディケイド(Medicaid)と住宅補助金を含む、福祉の受給金は、50州全ての最低賃金の仕事よりも高額で、また29州では、秘書の初任給よりも福祉の受給金の方が高いのである。

次に挙げることは、正真正銘の事実である。福祉国家政策によって、若い女性や十代の女性は、結婚しないで子供を作り、仕事をしなくても生きていくことができる。婚外子の出生率は、べらぼうに上昇している。最新の調査では、その割合は、黒人の間では68%、白人の間では23%も上昇したということである。そして、インナー・シティーには、犯罪、貧困、絶望がはびこっているのだ、と人々は認識している。働きやすさ、学びやすさ、安い賃金の仕事に2年間しか就けないことなどの、貧困に陥らないための機能は、インナー・シティーではうまく機能していないのだ。未婚の母、父親のいない子供、貧困、犯罪、そして福祉という悪循環をぶち壊す唯一の方法は、次のことを私たちがちゃんと認識することだ。福祉政策は、人々を助けることよりも、それ自体が、問題の原因となってしまう。 

福祉が利用できなくなったら、潜在的な福祉受給者たちに、一体何が起こるだろうか? 彼らの多くは仕事に就くことになるだろう。その手助けとして、単純労働に関する様々な規制を取り除くべきだ。最低賃金法を廃止すべきだ。これによって、人々は、生きていくために仕事に就き、そこで技術を磨き、もっと賃金の良い仕事に就くことができるようになる。国家資格に関する様々な法律を廃止すべきだ。こうした数々の法律によって、人々は、自由に理髪師やタクシーの運転手などになることを妨げられているのだ。減税し、官僚主義的な形式主義を無くすべきだ。これによって、より多くの人々が新しいビジネスを始めることができる。そして、犯罪発生数を減らすことで、人々は、インナー・シティーの中で、新しいビジネスを喜んで始めることになる。ジェイン・ジェイコブは、彼女が1969年に著した古典的名作『都市の経済学』の中で次のように書いている。「貧困に特別な原因はない。しかし、繁栄には、特別な原因があるのだ」 彼女は正しい。私たちは、より多くの人々に仕事に就いてもらいたいと思っている。そして、働くことで、彼らが自分自身の力で繁栄を築いて欲しいのだ。

もちろん、十代の若者たちの中には、妊娠をしてしまう若者も出てくるだろう。一方で、他の若者たちの多くは、妊娠することで、仕事をすることもできず、他の人々の援助を必要とすることを知り、慎重に行動するだろう。妊娠した若者たちの多くは、市民社会の基本構成単位である、彼ら自身の家族に頼ることになるだろう。家族は、2つの基本的な方法で、苦境に陥った家族を手助けすることができる。1つは、当然のことながら、家族の中に迎え入れ、一緒に生活するか、もしくは一緒に住まなくても、金銭やその他の形での援助を与えるという方法である。もう1つは、様々な価値判断を教えるか、もしくは若者たちが正しい行為とは何かを学ぶのを手助けする方法である。福祉を利用できない、と知ることで、母親たちは、自分たちの娘たちに、妊娠を避けること、学校に通い続けることの重要性を徹底的に教えることになる。家族と同じだけの愛と厳しさを与えられるソーシャル・ワーカーなどいないのだ。

仕事にも就けず、家族にも助けてもらえない人々もいる。この場合には、市民社会の他の構成単位、特に慈善団体が、彼らの家族の果たすべき役割を代わりに果たすことになる。私たちは、既に、第7章で、相互扶助について議論した。その内容は、相互扶助は、貧困を避けるために重要な役割を果たしているが、これからもっと重要な役割を果たすべきだ、というものだ。ここでは、慈善活動に焦点を当てよう。最近、政府の福祉事業を削減すべきか否かについて議論が起こっている。その中で、多くの慈善団体が、政府の果たしている責任全てを自分たちが肩代わりすることはできないと警告している。つまり、彼らは、「自分たちは充分な資金を持っていない」と言っているのだ。そう、その通りだ。しかし、私たちにとって、重要なことは、政府の各福祉事業が失敗しているという事実そのものなのだ。その解決法は、それら各福祉事業を復活させ、大きくしないというものだ。政府が無責任さを増長させるような福祉事業を廃止するなら、人々は自分たちの力で生きていかねばならなくなり、慈善活動自体の必要性が減少するだろう。また、民間の慈善活動は、政府主導に比べ、少ない金でより多くの成果を得ることができている。シカゴの、コニー・ドリストル修道女の主宰する「希望の家」は、女性のホームレスたちを支援している。ここでかかるコストは1人当り、17ドル(約750円)以下である。それに対して、政府の支出しているホームレスのための援助施設は、1人当り、1日に22ドル(約2400円)もコストがかかっている。コストの面は言うに及ばず、「希望の家」を出た女性たちで、再び路上生活に戻ってしまう割合は6%以下という、驚異的な成功率を収めている。1906年から、ワシントンD.C.において、慈善団体「福音の使命」が活動している。「福音の使命」は、ホームレスのための援助施設、食糧銀行、麻薬中毒治療センターを運営している。この「福音の使命」の基本的な原理は、「人間は見返りなしで何かを得るべきではない」というものである。ホームレスたちが援助施設に泊まるには、1晩3ドル(約320円)支払うか、1時間だけ施設のために働かねばならない。「福音の使命」の指導者であるジョン・ウッズ師は次のように語っている。「思いやりは、人々をどん底の生活から引き上げます。思いやりは人々を貶めることなく、共感を誘うのです。手助けを必要としている人々には、彼ら自身が責任感を持つことが必要なのです」 「福音の使命」の麻薬中毒治療プログラムを終えた麻薬中毒患者たちの約3分の2は、麻薬を止めることができている。それに対して、政府の運営するプログラムの成功率は10%で、患者1人当りにかかるコストは「福音の使命」は20倍にもなる。

アメリカ中至るところに、貧しい人々を助けるための、小さいながらも、地域に密着した慈善活動が数多く存在する。アメリカ国民は、年間、慈善活動に、総計で、125億ドル(約13000億円)以上の金と、20億時間以上の時間を投入している。税金がもっと安くて、慈善活動を行う責任が政府から市民社会へと移行していると理解するならば、人々はもっと多くの金と時間を慈善活動に投入するようになるだろう。

もし、読者の皆さんが、民間の慈善活動が政府の福祉事業に取って代ることなどできないと固く信じているのであれば、次のような問いを自分自身に問い掛けてみて欲しい。あなたが、宝くじで10万ドル(約1100万円)当ったとする。しかし、これは偶然の産物である。そこで、あなたは、その中から幾らかを貧しい人々を助けるために寄付をすることにした。この場合、あなたは、その金を合衆国厚生省、あなたの住む州の厚生局、民間の慈善団体のどれに寄付するだろうか? 多くの人々は、民間の慈善団体を選択することに躊躇しないだろう。

犯罪(Crime

アメリカにおける、犯罪暴力の発生数は、恐ろしいほどの数である。このことによって、私たちは、インナー・シティーに住むことができなくなり、中産階級の人々は、都市から追い出される格好になり、人々の間の緊張感を増大させている。私たちは、犯罪数がここ数年、減少していると聞かされている。それにもかかわらず、具体的な数字を見てみると、そのような主張を疑わざるを得ない。1951年に、ニューヨーク市では、年間244件の殺人が発生した。1990年代には、人口は当時と変わらないのに、年間平均で2000件以上の殺人が発生している。1965年に、ミルウォーキー市では、27件の殺人と214件の窃盗が発生した。そして、1990年には、同市で、165件の殺人と4472件の窃盗が発生した。そして、年を追うごとに状況は激烈に悪化している。1995年に比べ、犯罪に関与する十代の若者たちの数は、2000年までに50万人も増えると予想されている。

犯罪の専門家たちは次のように警告している。現在の十代の若者たちは、前の世代に比べ、暴力犯罪に関わる傾向が高い、と。その主な原因は、家族の中に父親がおらず、共同体においても、父親がいない仲間たちの中で成長してしまうことにある。プリンストン大学のジョン・ディルリオ・ジュニア教授は、重罪者用の刑務所に入っている受刑者たちに聞取り調査を行った。すると、受刑者たち自身すらも、現在の若い犯罪者たちに対して恐怖を感じている、ということだ。

文明化された社会の第一の条件は、人々を暴力から守ることである。私たちの政府は、この義務を果たすことに完全に失敗している。私たちは、犯罪に対処する新しい方法を必要としている。第一に、合衆国憲法には、犯罪を解決するのは、州政府や地方自治体の仕事であると規定されていることを心に留めておくべきだ。連邦政府が定める一般的な犯罪に対する規則には、憲法による権威づけなど存在しない。つまり、最近の連邦政府の定めた「犯罪リスト」(a general federal criminal code)は、全て政治によって動機づけられているだけに過ぎない。こんなことをしたところで、犯罪率減少に何の「効果」もないであろうことは明白だ。第二に、殺人、レイプ、暴行殴打、窃盗といった重犯罪の約80%は、犯罪者の総数の20%によって起こされている、という事実を私たちは心に留めておくべきだ。行政機関が実施する州法は、再犯の可能性の高い、危険な人々に、条文の照準を合わせるべきだ。そうすることで、彼らを町中の通りから排除するべきなのだ。

長い目で見れば、犯罪数を減らすことができる最も確実な方法は、婚外子の割合を上昇させている現在の福祉システムを変えることである。父親のいない少年たち、特に父親がいないことが当然の共同体に育った少年たちは、今日、私たちの都市の中で暴力犯罪を引き起こしてしまう危険な犯罪者たちなのである。父親たちは、少年たちに、彼らの持つ、思春期に特有の反抗心や冒険心をどのように扱うか、そして強くて、自律的な大人に、どのようにしたらなることができるかを教え、示す。父親のいない少年たちは、十代で殺人を犯した少年たちの総数の72%を占め、重罪による長期受刑者たちの70%を占めている。

より直接的に、犯罪数を減らすことができる最も確実な方法は、各種の麻薬を合法化してしまうことである。私たちの政府が採用している諸政策によって麻薬の価格が暴騰し、インナー・シティーに住む若者たちの多くは、麻薬を商売として扱うことが有益で、賢くて、魅力的な選択である、と思ってしまっている。貧しい人々が住む、インナー・シティーの中にある学校の教育レベルでは、多くの若者たちが、マクドナルド・ハンバーガーでアルバイトするか、福祉に頼るか、麻薬販売をするかしか選択肢がないと思ってしまうのは当然だ。しかし、1920年代にアルコール販売が禁止された時期と同じで、麻薬禁止政策は、犯罪者たちに、麻薬の独占販売を保証していることになるのだ。麻薬中毒患者たちは、もし麻薬の使用が合法であれば、より安価で購入でき、より安全な習慣であった筈の麻薬使用に多くの金を支払わねばならない。そのために彼らは、罪を犯さざるを得ないのだ。麻薬の売人たちは、銃撃以外に紛争を鎮める手段を持たない。麻薬が普通の農場で栽培され、普通の酒屋で販売されるならば、麻薬禁止政策が原因の窃盗も、強盗も、自動車からの銃撃の被害者の数もずっと少なくなるだろう。州政府が個人に対して公権力を行使する際に、何らかの制限がなされるとするならば、州政府は、私たちが体内摂取するものに関して、規制を課すことは許されないだろう。麻薬禁止政策は、抑圧的であり、非生産的である。

もし、麻薬禁止政策を廃止するならば、私たちは暴力犯罪を起こした犯罪者たちを捕まえるための警察力、裁判の時間、そして刑務所の独房といったものにかかる経費を支払わなくて済むようになる。このような犯罪者たちに対して、私たちが願うことは、迅速に、確実に、厳しい処罰が与えられることだ。暴力犯罪に対する罰則内容は、社会の抱える犯罪の内容に比例する。アメリカ合衆国内では、犯罪状況は、とても厳しい状況にあるので、窃盗、暴行、レイプ、殺人などの重大な犯罪に対する内容の水準を引き上げるべきなのだ。私たちは、条文に効力のある法律を施行すべきだ。そうすれば、犯罪者が実際に、規定されている条文を守るようになるということを、私たちは理解している。つまり、具体的に言うと、3つの重罪を犯した犯罪者たちに対する「三振アウト法」であり、より凶悪化している少年犯罪に対してこれまでよりも厳しい処罰を課すといったことである。

しかしながら、これらの諸政策を実施する中で、私たちには、犯罪抑制と市民的自由との関連をはっきりさせる必要がある。保守主義者たちは、「犯罪者の諸権利」に対して激しい非難を浴びせている。特に現代の法律書には書かれるようになったが、この「犯罪者の諸権利」とは、より適切な用語で言えば「被告の諸権利」のことである。罪を犯すことなんて思いもよらないが、いつか犯罪者として告発されるかもしれない、と想像することができる人々と、本物の犯罪者たちとの重要な区別となるのだ。私たちは、犯罪抑制に対してもっと努力するべきだ。しかし、行き過ぎは許されない。具体的に見ていく。警察が捜査令状の提示をしないで、自動車、事務所、住宅を勝手に捜索すること、「禁治産者」に関する規定があるとは言え、だらしない人々の財産を警察が没収してしまうこと、そして、盗聴や、機械を使った監視を一般の人間にまでしてしまうことなどである。

銃規制は、犯罪抑制の解決法にはならないだろう。アメリカ合衆国内には、現在、2億丁以上の個人所有の銃器がある。そして銃規制が行われても、その状況は変化しない。法律を遵守している市民たちは、武器を所有することに関して、自然権(natural right)によって保障された、憲法上の権利(constitutional right)を持っている。その武器は、狩猟のためだけでなく、自己防衛のための、最終的には自由を守るための武器なのだ。

最後に、警察力の民営化は、犯罪抑制のための見落とされがちな解決法である。人々の諸権利の擁護は、政府にとって、基本的な、そして正当な目的である。しかし、他の義務に比べて、この目的があることが理由となって、政府がより効率的に運営されるということはない。既に、アメリカ国民全体では、自衛のために、150万人のガードマンを雇っている。この数は、国家や地方自治体の抱える警察官の数の約3倍に相当する。

最近、私は夕方買い物を済ませた後、レストランで食事をした。その後、シャッターの閉まった商店の前を過ぎ、人通りのない道を歩きながら、私は少しも恐怖を感じなった。それは何故だろうか? それは、私が私的共同体(private communities)の一種であるショッピング・モールの中にいたからだ。私的共同体は、政府に比べ、秩序を保つことに対して、より積極的で、その能力も高い。こうした理由から、商店は、モールの中に入り、人々は、警備の厳しい共同体に住むようになったのである。こうした現象は、全米各地で発生している。政治社会(political society)はどんどん小さくなり、市民社会(civil society)への依存は、どんどん大きくなっている。こうしたことは、私たちの利益となっている。家族の価値(Family Values

家族は、市民社会の基本的な構成単位である。政治的な立場が、右であっても左であっても、全ての人々が、家族の崩壊に関心を示し始めている。国家が拡大し、人々の自発的な集まり、自由、責任に取って代ってくるようになるにつれて、様々な原子的社会(atomized societies)が形成されるようになる。この「原子的」という言葉は、何もリバータリアニズムがそうだというのではない。福祉国家主義(welfare statism)が原子的なのである。

犯罪率の急上昇は、著しい問題となっている。1960年には、5%であったのに、現在では、30%にもなっている。ここ20年間の、社会科学的な研究によると、私たちは、ここ1000年間の経験を忘れてしまっていることに気付かされる。その経験とは、経済的、感情的な理由により、子供たちには両親が必要であるということだ。母親一人だけで、それも特に、仕事のできない十代の母親だけでは、家族を支えることは困難である。母親が働けず、貧しい生活をしている、父親のいない家族で育った子供たちの数は、両親は揃っているが貧しい子供たちの数の、5倍にもなる。そして、もっと大きな問題がある。それは、母親だけでは、十代の少年たちを導き、教えることが困難である、ということだ。何の導きも、教えも受けていない十代の少年たちは、自動車からの銃撃などの事件を起こしてしまう。こうした事件が起こることで、私たちは、インナー・シティーを悪夢の場所と考え、小さな子供たちは外で遊ぶことができなくなっている。

私たちは、これまで、両親が起こす深刻な問題、即ち、離婚問題が子供たちに与える影響を軽く見てきた。婚外子の数よりも、両親の離婚を経験している子供たちの数が年々、急激に増加している。離婚した男女の多くは、結婚を解消して良かったと言っている。しかし、多くの子供たちは、そのことで苦しんでいるのだ。離婚して10年も経つと、3分の2以上の子供たちは、年に1回も父親に会わなくなる。離婚した家族の子供たちは、両親の揃っている家族の子供たちに比べ、2倍も高校を中退している。つまり、離婚した家族の若者たちは、2倍も、心理的な手助けを必要としているのだ。

コミュニタリアン(communitarians、共同体主義者)や、左右両派の「家族の価値を重んじる人々」の中には、家族に関する問題という点から資本主義を非難し、家族に関する問題を抱える人々が全て悪い訳ではないと主張している人々がいる。自由の意味するところ、それは、人々が自分自身で選択をすることである。豊かであることは、より多くの人々に家族から離れ、自分自身の力で生きていくための様々な手段を与えてくれる。しかし、忘れてはならないことがある。それは、ヨーロッパでの抑圧と貧困によって、数多くの人々が家族から離れ、自由と富裕を求めて大西洋を渡ってきたのである。資本主義的な富裕と技術によって、効果的な出産調整法が生み出された。それは、性に関する革命が起こることを手助けし、同時に、多くの人々が遅く結婚し、離婚数が増加するように仕向けてきた。家族が形成され、持続されているのは、人々に、他の選択肢がないからだけでなく、人々が、家族の安らぎと心のつながりを必要としているからだ。

現在、政府は、分かりやすい方法と、そうではない方法の両方を用いて、家族を蝕んできている。最も分かりやすい方法とは、福祉制度である。この福祉制度によって、若い女性たちは、結婚せずに子供を産んでも、ある程度幸福に暮らすことができるのだ。一昔前、母親たちは、娘たちに、結婚せずに子供を産むことは不幸なことだ、と教えた。結婚せずに子供を産むことを道徳的な汚点とするのは、突き詰めれば、家族や身近な共同体に財政的負担をかけることになるという、かなり現実的な問題に起因していた。しかし、福祉がその財政的負担を取り除く結果になった。それによって、道徳的な汚点は急激にその意味を失い、両親が結婚しない関係で生まれた子供の出生率は急上昇したのだ。

しかし、次のことが、政府が家族に与えた唯一の、そして、最大の衝撃である。それは増税である。1950年に、平均的なアメリカの世帯は、収入の5%を所得税として支払っていた。しかし、現在、その税率は約24%にまで上昇している。女性たちには、当然、働く権利がある。しかし、この高い税率によって、子供と一緒に家にいることを望む女性たちが働くことを強いられる結果となっている。土地の区画分類に関する、中身のはっきりしない法律は、多くの都市で採用されている。この法律によって、「母屋に隣接する老人用はなれ」(granny flats)は、認められなくなった。この「老人用はなれ」は、母屋の裏側にあり、入口が別な建物である。これは、老人たちが、家族との適度な結びつきと家族からの独立を保つためには必要なものだった。もちろん、人々は、義理の母親が、同じ敷地内に住むことを望まないだろう。しかし、結局のところ、政府にとっての最大の事業である、社会保障制度が、家族の結びつきを失わせてしまったことは明らかだ。社会保障制度が完備される前は、老人たちの多くが、彼らの子供たちに頼り、このことが家族の結びつきを強めていた。現在、私たちは、両親の面倒を政府に期待してしまっている。私が社会保障制度の、来るべき、財政的な困窮について話していた時、私のある友人がこんなことを言った。「社会保障制度は結構な制度じゃないか。おかげで、僕は母親と離れて暮らすことができている。この制度を維持するために、年間200億ドル(約22千億円)かかったとしても、それは支払う価値があると思う」 個別の事情で、場合によっては理解できることもある。しかし、社会保障制度は、疑わしい社会政策である。もちろん、私たちは、政府に対して、子供の面倒を見ること、子供の教育を与えること、そしてデイ・ケアの一環として、学校を午後6時まで開放しておくことを期待している。私たちは、政府は、私たちから幼児や子供、そして老人に対する責任を奪っている。こうした現状を放っておいて、「家族を崩壊させてはならないのだ」と言えるだろうか?

リバータリアンたちは、道徳的な保守主義者たちのように、政府が伝統的な家族形態を支援し、奨励する必要があるとは考えない。リバータリアンたちは、人々が自分たちの望む形態の家族を形成することができるように、政府による家族への干渉を止めさせる必要があると考えている。リバータリアンたちは、究極的には、政府が結婚と家族に関する事業から手を引いて欲しいと考えている。どうして、政府が人々の結婚に、許可を出すべきだと言えるのか? 結婚は、自発的な同意の結果であり、相互契約であり、多くの人々にとっては深淵な家族的意義を持つものでもある。こうした結婚というものに対して、政府は何らかの役割を果たさねばならないのだろうか? 私たちは、結婚という概念を、全ての人々の手元へ、市民的な契約もしくは、ある人々にとっての宗教上の誓約として、戻すべきなのだ。

このような政策によって、結婚自体がしっかりとしたものとなるだろう。国家は、結婚に対して厳しい規制を課してきた。この規制によって、全てのカップルは、根本的に1つの型に当てはめられた契約しか与えられなかった。核家族の数の増加と、働く女性たちの数の増加など、社会的な変化が大きくなるにつれて、国家が保証する、ありきたりの契約は、より多くの家族の形態に合わなくなってきている。カップルは、それぞれ自分たちに合った契約を結ぶべきだ。裁判所は、商取引上の契約に与えるのと同じ敬意を、それぞれの結婚の契約にも与えるべきだ。

政府が結婚に対して許可を与えている限り、政府は、結婚に関して、いかなる差別も行わないという基本の下に、全ての人々に結婚の許可を与えるべきだ。国家が異人種間の結婚に許可を与えないのは誤りである。連邦最高裁が1967年まで、結婚に関する差別を違憲としなかったのは正義を捻じ曲げたものであった。同様に、今日、同性間の結婚の権利を否定するのは誤りである。ジョナサン・ラウチは次のように主張している。結婚には、3つの素晴らしい社会的利益がある、と。それは、子供たちが落ち着いて育ち、男性たちが教化され、そして、配偶者の病気や老人たちの面倒を見ることに対して責務が生まれることである。男性の同性愛のカップルにとっては、少なくとも後半の2つは実行可能であろうし、女性の同性愛者たちのカップルにとっては、3番目と、おそらく1番目は、実行可能である。結婚とは、ある人間が、愛情と責任感を持つことでもある。それに公式な許可を与える場合には、人間の尊厳を基にしなければならない。保守主義者たちは、「同性間の結婚が、異性間の結婚を脅かしている」と主張している。しかし、そんな証拠はどこにもない。父親のいない子供たちで世界をいっぱいにすることは、男性の同性愛者たちのカップルではほとんど起こらない。そして、異性間であっても、同性間であっても、「より多くの」人々が結婚することは、結婚制度の確立に対して、確実に役立つ。

教育(Education

教育に対しての、リバータリアニズムの立場は、昔から、そして現在まで、はっきりとしている。教育というものは、知識だけではなく、私たちの文明の根本をなす諸価値を、私たちに伝達する過程のことなのである。教育は、政治家たちや官僚たちではなく、個々の家族によってコントロールされねばならない。何故ならば、教育には、人生において重要な、「何が良いことで、何が悪いことか」を子供たちに教えるという行為が含まれているからだ。独占的なシステムでは、様々に異なった社会に生きる、親たち全てが持つ、様々な価値観を十分に反映することなどできない。また、子供たちに何を教えるかを決定する際に、政治家や官僚が、親たちの意向を無視するようなことは、彼らの尊大さの極みの現われである。

加えて、「官僚的独占は、様々な価値あるサービスを提供するには、大変に非効率的な方法である」ということはよく知られている。政府がちゃんとした鋼鉄を製造できるなんて、誰も思っていない。それなのに、私たちは、様々な多様性を持つ、多くの子供たちに知識と価値観を教えるという、微妙で、複雑な仕事に政府が成功すると期待する理由はどこにあるだろうか? 私たちは、マーク・トゥエインの次のような皮肉を心に留めておくべきだろう。「私は、自分自身の教育に関して、学校に干渉させたことなど、これまで一度もない」教育には、数多くの方法がある。よって、私たちは、現在の学校制度がしっかりしていて、固定された制度だ、と考えることはないのだ。

アメリカ合衆国の公立学校制度の根本的な失敗は、下のグラフの中にはっきりと現われている。インフレーション率を考慮に入れてあるが、教育費は、ここ30年間で、3倍に膨れ上がっているのに、テストの平均点は急落し、そのまま横ばい状態にある。第二次世界大戦以降、学校の規模と校区の面積は、どんどん大きくなっていった。それによって、地域共同体の学校への係り合いが少なくなり、代わりに、官僚たちが教育をコントロールするようになった。1960年から1984年にかけて、アメリカの公立学校への入学者数は、たった9%しか増加していないのに、教師数は、57%も増加して、学校長や特別顧問の数は、79%も増大した。また、教師や特別顧問ではない、学校職員の数は500%も膨張した。しかし、どういう訳か、学校は、予算削減を通告され、その存在を脅かされている。この予算削減の中身は、官僚たちではなく、教師たちを解雇するというものだ。ニューヨーク市の公立学校局には、6000人もの本部職員がいる。一方、ニューヨーク市にある、民間のカトリック系の学校機構には、たった30人の本部職員しかいない。生徒数は、公立学校の4分の1である。

実業界の人々は、テストの平均点が下がり続けていることだけでなく、次のことに対しても不平不満を漏らしている。アメリカの高校の卒業生たちは、仕事をすることに対して、何の準備もなされていない、と。様々な調査結果では、アメリカの高校生たちは、読解力、作文、数学の能力は良好だ、と言われているが、雇用者たちは異なった見方をしている。ある調査によると、雇用主の内、たった22%の人々しか、「最近の高校の卒業生たちは、十分な数学の能力を持っている」と考えていないし、たった30%の人々しか、新規採用者の読解能力に満足していないという結果が出た。ある時、ベルサウス社(BellSouth)が技術系の就職希望者を試験したのだが、希望者のたった8%しか合格できなかった。モトローラ社(Motorola)は、年間、1人の被雇用者に基本的な技術を教えるのに、1350ドル(約146千円)も支出している。多くの企業で、貧弱な読解力でも理解できるように、マニュアルを書き直したり、読解力や数学の能力を必要としない技術を開発している。つまり、学校は、国際競争に対しての準備ができている労働者を世の中に送り出していない、ということになるのだ。

私たちの社会で行われている、意志や情報の伝達形態は、ここ20年で革命的に変化してきた。しかし、学校は、今だに、200年前と変わらない方法を採っている。具体的に言うと、1人の教師が30人の生徒たちを前に講義をし、農業社会のリズムに合わせて、学校のある日や学期が決定されている。利益を追求し、実際に利益を得てきた、様々な企業によって、教育が自由化される、という大きな変化が起こることを私たちは期待するしかないのである。

リバータリアンたちは、教育を官僚主導的な状態から脱却させ、生徒たちと親たちに本当の責任を持たせたいと望んでいる。私立学校は、公立学校に比べ、生徒たちを教育するという点で、より良い仕事をしている。しかし、親たちの多くは、ひとたび公立学校に子供を通わせると、学費の問題から、なかなか私立学校には行かせたがらない。私立学校の学費は、彼らにとって、高額なので、なかなか支払えないのである。もし、学校教育税を支払う義務がなくなったら、親たちは市場で、教育という商品を購入する余裕を持つだろう。もしくは、税金が安ければ、多くの家族は、父親か母親かどちらかが、家にいて、子供たちを教育する余裕を持てるだろう。

多くの人々は、学校制度が無料でなく、かつ強制ではなくなったら、多くの子供たちが教育を受けられなくなるのではないか、と恐れている。歴史的な証拠は次のことを明らかにしている。イギリスやアメリカ合衆国では、政府が教育に関わる以前から、大部分の子供たちがちゃんと教育を受けていた。市民社会や市場過程の支持者ではないエドワード・M・ケネディ(Edward . Kennedy)上院議員ですら次のように不満を述べている。公的教育制度の出現以前の読み書き能力は、今日の水準よりも高かった、と。このことは次のような疑問を引き起こす。では、どうしてケネディ上院議員は、そんな哀れな結果しか出せない政府の制度に対して、もっと多くの金をつぎ込むことを望むのか?

これらの主張に共感しつつも、「完全な自由市場は、十分な教育を子供たちに与えることができない」と考える人々がいる。そこで、私たちリバータリアンは、教育を自由化するについての、いくつかの妥協的な段階を提示する。私たちが、現在、公立学校の生徒たちに支払っている金、具体的には、生徒1人当り年間約6,800ドル(約735千円)を留保する。その金を家族に、奨学金や学費の保証金という形で、直接的に給付することができる。これによって、家族は、子供たちを公立学校に行かせるか、私立学校に行かせるかを選択することができる。そうすれば、教育は、強制的な徴税によって資金を賄ってはいるが、少なくとも、親たちにとっては、子供たちに通わせたいと望む学校を選択することができるようになる。富裕層や中産階級の家族に、彼らの子供たちの教育にかかる金を、自分たちで支払うように期待することは、より良いことだ。確かに、教育は、子供たちが成長していく上で、欠かせない基本的なコストである、と考えるべきだ。しかし、貧しい子供たちにも、税金によって賄われた学資保険が与えられるべきだ。これが実現されることで、学校教育税は、十分に引き下げられるだろう。そして、親たちの多くが、自分の子供たちの教育費を自分たちで支払うことができるだろう。

数年前のソ連の工場に似て、今日のアメリカの学校は、技術的に遅れていて、職員が多すぎ、柔軟性に欠け、消費者需要に対して無責任で、トップの官僚たちの都合に合わせて運営されている。私たちは、年間3,000億ドル(約32兆円)市場である教育産業の門戸を開放し、市場過程に委ねる必要がある。学校が親たちに学費を支払ってもらおうと競争し、個々の生徒たちのニーズに合った教育法を見つけることができる、様々な方法を想像してみて頂きたい。教育技術は揺籃期にあるが、しかし既に、市場を形成している。そして、多くの金が教育技術の研究開発につぎ込まれている。多くの学校は、親たちの様々な価値観を尊重し、親たちの教育参加を歓迎している。ある才能あふれた教育者が次のように語った。私たちは、この言葉から学ぶことができる。「私たちは、子供たちを学校に行かせるために色々と準備させる必要はない。逆に、学校が子供たちを迎えるための準備をすることを必要としている」 市場では、こうした変化が発生しているのだ。

市民的自由の擁護(Protecting Civil Liberties

私がこれまで述べてきたように、リバータリアニズムは次のような見方をする。それは、それぞれ個人は、他の人々の平等な諸権利を尊重する限りにおいて、自分の選択した方法で生きる権利を持つ、というものだ。従って、リバータリアンたちは、ある人の行動が他の人の諸権利を侵害しない限り、政府が個人の行動に対して制限を加えることに反対する。当然のことながら、このことは、特別な行動を是認したり、支持することを意味しない。つまり、これは、国家の強制的な権力は、私たちの諸権利を擁護することだけに限定されるべきことを意味する。私たちが持つ市民的自由の全てを列挙することなどできない。国家がそれら諸権利を制限しようと試みるので、私たちは、特別な市民的自由を、新たに創造しようとするのだ。アメリカ合衆国の権利章典(the Bill of Rights1791年)の内容は、個人の諸権利に対して、イギリス政府が制限を加えたという、起草者たちの特別な経験を反映したものだ。しかし、起草者たちは、個人の諸権利全てを列挙することはできないことを認識していた。そこで、個人は、列挙されていない諸権利をも保有するという内容の修正条項9条と、連邦政府は憲法で規定された権力しか持たないという内容の修正条項10条を付け加えた。

市民的リバータリアンたち(civic libertarians)は、自分たちが非難すると思われるような行為を行うような人々の権利をも擁護していることに気付くことが度々ある。ハイエクは、著書『自由の条件』(The Constitution of Liberty)の中で次のように書いている。「自由とは、必然的に、私たちが好まないような多くの物事もなされるということを意味する」 私たちは、自由の、普通の状態から利益を受けている。それは、この状態が「私たち」の望むことを「私たち」が行うということを保証しているからではない。それは、文明が、様々な試みと失敗、個人の新しい生活への挑戦を通して進んできているからでもある。ハイエクは、次のように続けて述べている。「100万人の中の1人が行使する自由は、私たち全てが行使する自由に比べ、社会にとって、より重要であり、多くの人々にとって、より有益である」

市民社会は、それぞれ個人が、選択した方法で生きるための場所を提供している。例え、その個人が、大勢に反対の立場にあっても、だ。しかし、市民社会は、同時に、人々に対して、他の人々と契約を結んだり、提携することで、ある人の行動の自由を制限し、快適な環境を創るために財産を使用する機会を与えている。簡単に言うと、大勢の人々が、喫煙という行為を危険で、実に嫌なものだと思っていても、人は、煙草やマリファナを楽しむ権利を持つ。しかし、同時に、人は、他の人々に対して、自分の家、レストラン、仕事場での喫煙を禁止する権利も持つ。人は、家を紫色に塗る権利を持つ。しかし、その人が隣近所と自発的なある同意、例えば、住宅開発に関する制限を盛り込んだ契約を結んでいたならば、家はパステル・カラーにしか塗れない。

リバータリアンたちは、言論の自由、出版の自由、報道の自由などの、個人の諸権利を擁護する。リバータリアンたちは、他の人々や事物を守るための様々な方法を用いて、自由という概念を洗練させている。例え、露骨で卑猥な言葉、人種差別を肯定する内容の雑誌、共産主義についての本であっても、リバータリアンたちはそれを擁護する。新しい技術は、新しい検閲の必要性を生み出してしまう。そして、コンピューター通信もその例外ではない。幸運なことに、とてつもなく複雑で、国境を軽々と越えるインターネット網を検閲することが困難であることが分かってきた。そこで政府は、市民たちが知ることができる筈のものに、制限を加えようとして、徐々に大きな圧力をかけてくるようになるだろう。

性生活にも、これまで多くの政府が干渉してきた。これは、政府に干渉されてきた私的な生活のもう1つの側面である。1960年代まで、同性愛関係は、ほとんど全ての州で違法とされていた。そして、私たちがもうすぐ21世紀を迎えようとしているこの時期になっても、約20州の法令集には、同性愛を違法行為とした法律が載っているのだ。これらの法律が活発に施行されていた時には、同性愛者たちは日陰者としての生活を余儀なくされ、多くの不幸が生み出された。同性愛者たちが諸権利の獲得のために立ち上がった時、各州政府は、法律の施行に消極的になり始めた。しかし、連邦最高裁は、1986年に、同意があったとしても、同性の性的パートナーを選ぶことは、憲法上、許されないという判断を下した。よって、同性愛を違法行為とする法律は、引き続き施行されることになった。具体的に言うと、同性愛者である両親が、子供を保護監督することは違法とされた。こんな法律は撤廃され、全てのアメリカ人が平等な諸権利を持つべきである。

私たちの安全を守るという大義名分の下に、政府は、私たちがビタミン類、調合薬、そして医療器具を選択する権利を否定している。確かなことは、ある特殊な薬物治療に金を出す、と自分で決定することは、他の全ての選択と同じように、個人的で、私的なものである、ということだ。多くの医師たちは、緑内障の除去や、エイズ、ガンの化学治療に伴う痛みや吐き気を減少させるのに、マリファナは、効果があると確信している。こうした医師たちは、正しいかもしれないし、間違っているかもしれない。しかし、決定に関しては、患者に責任があり、ワシントンの官僚機構は、決して責任を取ることはできない。

市民的自由における最大の混乱動向の1つは、アメリカの各法執行機関が、重武装化していることだ。この重武装化の大部分は、拡大し続ける無益な麻薬戦争が段階的に悪化させてしまっている。繰り返しになるが、政府が何かに干渉して、それが失敗すると、政府は、更に干渉しようとしてくるのだ。麻薬禁止のための政策は、麻薬取引を止めることに失敗している。そこで、政府は次のように指摘している。「麻薬取締が失敗しているので、より多くの警察官を雇い、外国の政府に圧力をかける。市民の財産を調査し、没収することができる公権力を拡大させる。何より、麻薬取引のお陰で、法を遵守している人々から、麻薬取引の頻発する地域内の公衆電話を奪い、被雇用者の全てに麻薬テストを課すなどとしている」と。現在、火器を使用し、逮捕を行うことができる権力を持つ役人たちが所属する連邦機関は52も存在する。この重武装化によって、暴力を用いた逮捕数が激増していると考えても、それは間違いではない。具体的な事例を見ていく。アイダホ州ルビーリッジでは、ビッキー・ウィーバーとサミー・ウィーバーが殺された。マリブ諸島では、マリファナが原因で、ドナルド・スコットが殺された。これは冤罪であった。テキサス州ウエイコでは、カルト教団ブランチ・デヴィディアンに対して、戦車やヘリコプターを使用した逮捕が強行された。これによって、80人以上の人々が死んでしまった。

トマス・ジェファソン(Thomas Jefferson)は次のように述べている。「自由には、その代償として永遠の警戒が必要である」(The price of liberty is eternal vigilance. 合衆国憲法は、自由を擁護することを手助けしている。しかし、侵略に対して自由を擁護することを決心した人々が形成する社会のみが、長期間にわたって、権力は拡大する、という自然な動きに抵抗することができるのだ。

環境保護(Protecting the Environment

良質な環境は、社会にとっての重要な側面である。そして、多くの人々は、自由市場は十分に良質な環境を供給できるということに対して懐疑的である。政治的、哲学的システムの中に、様々な環境問題を解決するための、完璧な解決法は存在しない。一方、リバータリアニズムは、人々が望む環境保護政策を生み出すための、利用可能な最高の枠組みを提示している。

経済成長は、良質な環境を生み出す助けをしている。より豊かな人々と社会は、より良質の空気と水を求め、それらに金を支払う余裕を持つことができる。生きることや、骨の折れる労働から脱出することに奮闘している人々は、環境的な快適さを心配したりはしない。人々は、快適な生活を送ることができるようになった時に、そのようなより高い質の「財」に注意を向けるようになる。事実、アメリカ合衆国内の空気と水の質は、今世紀の間に、徐々に改善されてきた。そして、私たちの平均余命が上昇し続けていることが、私たちの国の環境が、より人々に優しくなってきている最高の証拠となる。

経済がより効率的になり、技術的に進歩するにつれて、各企業は、より少ない原材料から、消費者たちの求めるより大きな価値を創造するようになる。次のことを良く覚えておこう。基本的な経済問題とは、同じ量の原材料からより大きな価値を生み出すということなのだ、と。各清涼飲料水製造会社は、コスト削減を目的として、缶1本に使用する金属、昔は錫、現在はアルミニウムが少なくて済む、様々な方法を開発した。1974年、1ポンドのアルミニウムから、22.7本の飲料の缶が産出された。そして、1990年、同じ1ポンドのアルミニウムから30.13本の飲料の缶が産出されるようになった。これと同じ動機で、各企業は、無駄な原材料の割り出しを急いでいる。コカ・コーラ社は次のようなシステムを開発した。それは、ボトルのキャップを切り取った後の金属板から、溶鉱炉のための理想的な濾過器を製造するというものだ。コカ・コーラ社のミニット・メイド・ジュース製造部がオレンジ・ジュースを製造する時、オレンジのどの部分も無駄にはしない。コカ・コーラ社はジュースの最後の一滴まで絞り出し、皮から油を抽出し、残り滓を雌牛たちの餌にしている。

様々な環境問題の、最も大きな原因の1つは、環境保護論者であるギャレット・ハーディンが「共有の悲劇」(the tragedy of the commons)と呼んでいるものである。全ての農家たち、酪農家たちが、放牧に利用できるように開放された地域、森林、湖のように、原材料が全ての人々に「所有」されている場合、それらは誰にも所有されていないことと同じなのだ。それは、誰もその財産の価値を維持したり、財産自体を維持しようという気持ちなど持たずに、それらを利用しようとするからだ。それはまるで、6人の子供たちに1つのミルクシェイクを与えたようなものだ。それぞれの子供は、他の子供たちよりも早く、そのミルクシェイクを飲み干したいと思っている。ある材木会社が国有林で、材木を切り出す場合、他の会社がその森林を使用することへの許可を得る前に、そこの木を全て切り出すのは当然だ。その材木会社が社有地から木を切り出す場合、その会社は切り出した分の数の木を植え直す。それらの木は、数年経ったら、金を生み出す財産となるだろう。今日、最大の環境問題の1つは、海洋資源の枯渇である。これは、共有の悲劇についての明らかな具体例である。この問題には、差し迫って、民営化という解決法が必要である。

リバータリアニズムの考え方は、どのような形で、環境を改善することの助けとなるだろうか?第一に、自由社会は、問題解決の方法を提供する。資本主義、民主主義、そして科学といった競争的なシステムは、アイデアを試し、競争させ、残った素晴らしいアイデアを採用する。ワシントンからの、命令し、規制するためだけの規制は、社会における様々な経済活動を十分に指導するどころか、多くの企業が直面している様々な環境問題を有効に管理できないのだ。

第二に、私的な所有者たちは、公的な所有者たちに比べ、原材料使用について、より注意を払う。私的所有権は次のことを意味する。それは、権利は、外枠がはっきりしていて、所有権者たちは、利益もしくはコストのどちらかを手に入れるということだ。共有の悲劇を避ける方法は、公共物を民営化することだ。環境経済学者リチャード・ストロープは次のように述べている。「財産は3Dである」と。つまり、「財産は、明らかに定義され(defined)され、侵害からしっかりと守られ(defended)、そして買い手と売り手が納得してこそ交換可能(deverstible)なのである」 野生のバファローは絶滅の危機に瀕しているのに、家畜として飼われている雌牛はそうではないのは何故か? リョコウバト(野鳩)は絶滅したのに、鶏は絶滅していないのは何故か? それは、所有者たちが彼らの所有物を大切にしようとするからだ。連邦所有地には、森林利用、鉱山の採掘権、放牧料、沿岸開発という諸問題がある。連邦議会は、それらの管理について、1年に1回だけ議論している。しかし、政治的な意向が絡んでうまくいかない。それだったら、そんな議論は止めるべきだ。そして、天然資源の私有化に向かうべきだ。民間の人々は、適切な財産管理をすることができる。

第三に、環境についての諸問題は、可能な限り、地域レベルで解決すべきである。環境問題に関わる政治活動家たちは、ワシントンから国全体に、彼ら自身の主張を実現させようと、何かと介入している。連邦主義(federalism)と助成金の原理は次のことを示すだろう。様々な問題は、可能な限り、民間で解決すべきだ、と。もしそうでなければ、連邦政府の介入を考慮する前に、地域や州レベルで解決すべきだ。ワシントンから国全体に、1つの解決法を押し付ける場合、私たちは、地方分権(decentralization)と実験からの、利益を失っていることになるのだ。

第四に、市場が上手く機能せず、財産権がちゃんと定義されておらず、財の分配が困難な場所では、慣習法(common law)は、問題解決のための重要な制度となる。人々が一緒に生活している場所ならどこでも、悪臭、雨水、工場からの煙といった、様々な環境問題は発生する。個人が裁判所の判決に同意しない時、その人は、財産権と法律を定義するのを手助けしていることになる。そのような進化し、分権化された法は、多様性のない規制ばかりの命令よりも、私たちにとってのより良い解答を導き出すのだ。

第五に、個人の責任を強調するリバータリアンは次のように主張する。集団に任せることで、個人は無責任になってしまう。そういう状況を避けるために、責任問題という点から、「公害企業への課徴金」を採用すべきである、と。余剰基金という考えは、古典的な間違いである。環境に配慮しない、危険な浪費を行う全製造業者は、基金に課徴金を支払う必要がある。その基金とは、ある特定の場所をきれいにするために、規制好きな官僚たちが、各企業に拠出金を割り当てたものである。私たちは、産業界全てに、集団的に罰則を課したり、全ての企業の持つ、汚染を避けようとする動機を取り除くよりも、むしろ個別の汚染者に対して実際に行った汚染による損害に対して責任を負わせるべきだ。環境政策の目的は、私たちの持つ一般的な法システムを当てはめながら、個人の人格と財産を守ることにあるべきだ。

最後に、当然のことであるが、より小さな政府は、政府それ自体が汚染を止め、環境汚染を改善する、と言うことができる。政府による環境破壊は、旧ソ連など東側諸国で猛威を振るっていた。環境破壊は、混合経済でも同様に深刻な問題である。連邦政府は、熱帯雨林の浄化の促進に対して、助成金を出している。アメリカ合衆国から中国まで、世界中の巨大な水力発電事業は、ほとんど政府主導で行われている。農業計画、特に砂糖の作付け割当は、農業用地の使用過多を招いた。このようなことを行う権力を持たないくらいの、小さな政府は、経済に対してと同じように、環境に対しても損害を与えるようなことなど、ほとんどないだろう。

私的所有権、分権化された意思決定、慣習法、そして厳格な責任といったものは、政治過程の中で作られる。それは、行動の結果など考慮しない規制の実行者たちによってなされる、命令し統制するためだけの規制などよりも、私たちをより良い解決へと導くだろう。その解決は、環境の質についての現実的なコストと利益の両方を反映している。しかしながら、慣習法の概念と所有権の概念の両方は、常に進化していて、それらは、環境問題に対しての十分な解決法とはなっていない。私たちは、水流、地下水脈、牧草地、動物の群れなどの中に、所有権を設定することができるようになった。しかし、私たちが、大気に対して所有権を持つにはどうしたら良いのか? 地球の温暖化は深刻な問題であるが、その証拠はまだ十分に明らかにされていない。そうなると、所有権と慣習法は、私たちに解決法を導き出してくれるだろうか?

経済学者たち、法学者たち、裁判官たち、実業界の人々、そして財産の所有者たちは、こうした疑問に対する解答について研究している。自由市場、もしくは少なくとも市場志向の機構は、環境問題を合理的に解決するために、汚染に対する課徴金、交換可能な排出許可、再利用できる資源の交換の市場、操業基準といった、社会的コストに、的を絞ってきた。こうした社会的コストには、技術を規定する規制や特別な汚染削減策は含まれていない。これらは、完全なリバータリアニズム的解決ではない。もっと機能する必要がある。しかし、こうしたことは、私たちが環境を政治の道具にしたり、経済に不必要なコストを課すことなしに、環境の質を改善することができることについての具体例である。

数年前、環境問題についてのある学術的な会議において、私は、モンタナ州で20年にわたり、牧場を経営している生物学専攻の大学教授の話を聞いた。彼は、自分の牧場で、原材料をどのようにしたら最も効率的に管理できるかという問題に取り組んでいた。彼の話に、私は感動した。彼は、「環境の改善に取り組み、生物学については、プロとして訓練を受け、原材料の管理については長い間経験を積んできた。それでも、自分の牧場で発生している諸問題にどのように答を出して良いか分からない」と言っていた。ここで次のような教訓を得ることができる。誰も完璧な解答を出せないし、社会全体に、ある人が考えた、1つの解答を強制すべきではない。カール・ヘス・ジュニアが著した『大地のヴィジョン』の中に、私たちの必要としているものが書かれている。「天然資源に関しては、風景画のような市場、独立についての有徳な共和制、注意、そして責任ある人々が必要なのである」

平和維持(Preserving Peace

古典的自由主義者たち(the classical liberals)は、常に、戦争を、政府が社会に与える最大の苦しみと考えてきた。彼らは、戦争によって正当化される殺人を憎み、同様に、ある何かを理解していた。そのある何かとは、戦争は家族を、ビジネスを、市民社会を破壊するということだ。王たちが、不必要な戦争を起こし、社会を危機にさらしながら、彼らの目的を押し付けることを防ぐことが、古典的自由主義者たちの主要な目的の1つであった。アダム・スミスは次のように主張している。幸せで、繁栄した社会を創造するには、「平和、安い税金、許容できる範囲内での正義の実行が必要である」と。

ヨーロッパ大陸での、終わりなき戦火から、幸運にも免れていた、アメリカの建国者たちは、平和と中立という、新政府の主要な原理を作った。ジョージ・ワシントン(George Washington)は、彼の退任演説の中で、国民に次のように語り掛けた。「諸外国に対する態度に関して、私たちを導いてきた偉大な原則とは、商業関係は拡大させるが、政治的な関係を可能な限り、小さくするということだ」 トマス・ジェファソン(Thomas Jefferson)は、彼の大統領就任演説の中で、アメリカの外交政策について次のように述べた。「平和的で、商業中心で、そして率直な友情を全ての国々と結ぶ。いかなる同盟関係にも巻き込まれない」

しかしながら、20世紀において、人々の多くが、アメリカ合衆国は世界中の諸問題と海外の戦争に関わらねばならないと信じるようになった。50年間、アメリカの外交政策は、ナチス・ドイツとソ連という2つの全体主義勢力を倒すという目的のために立案されてきた。今日、こうした偉大な遠征は完了した。アメリカは安全で、挑戦的なイデオロギーがアメリカ市民や世界平和を脅かすことはない。しかし、第二次世界大戦とその後の冷戦の間に拡大した、巨大な外交的、軍事的な秩序は勝利を宣言し、平和時の状態に戻ることを拒絶している。その代わり、アメリカの軍事力は拡大し、その軍事費は高騰し続け、アメリカの市民たちは、冷戦後の世界は、ソ連によって脅かされた時よりも、より危険で、より不安定だと教えられている。従って、私たちアメリカ市民は、今だに、ヨーロッパ、日本、韓国、そして中東にある程度の兵員と軍事力を置いている。

中東での湾岸戦争以来、2年から3年の間に、私たちは、ソマリア、ハイチ、ボスニア、ルワンダ、ブルンジ、マケドニアやその他の多くの地域に、アメリカの兵員を派遣し、また派遣すべきだと主張してきた。これらの地域には、ある1つの事実が共通点として存在している。それは、アメリカの重要な国益が、これらの地域で危機に瀕してはいないということだ。ヴェトナムでの不幸な出来事から、一世代(約30年間)も経たない内に、私たちは、私たちのヴェトナムへの介入がもたらした教訓を忘れてしまったようだ。その介入もまた、最初は大変小さいもので、素晴らしい目的があった。しかし、私たちは、その初期段階で、最終的に、ヴェトナムに50万人ものアメリカ人が送り込まれ、55千人のアメリカ人の命が失われてしまうなどと、誰も予想しなかった。

私たちは、戦争と外交政策についての23の単純な規則を覚えておくべきだ。一つ目に、戦争は、人を殺してしまう。特に現代社会においては、戦闘員たちと同じくらい民間の非戦闘員たちが戦争によって殺されるようになった。戦争は、どんなことをしても避けられない。しかし、世界中の戦争は、可能な限り、回避されるべきだ。アメリカ合衆国、もしくは全ての政府を海外の戦争に巻き込もうとする計画は、大きな懐疑をもって扱われるべきだ。

二つ目に、既に議論したように、戦争は大きな政府を創り出す。歴史的に見ても、戦争は政府に対して、予算と権力を欲しいままにし、社会を厳しく統制することを可能とする、口実を与えてきた。第一次世界大戦と第二次世界大戦の戦時中、アメリカ合衆国政府は、平時では決して得られないような権力を獲得した。それは、賃金と価値の統制、配給、労働量と生産量についての密接な統制、そして天文学的な税率といったものだ。連邦政府の権力に対する、憲法による制限は、すぐに実効性を失った。それは、そうした戦争が戦われるべきではなかったということを意味しているのではない。これは、私たちの社会秩序全体に対する戦争の及ぼす結果と、絶対的に必要がある場合にのみ、戦争は行われるべきだ、ということを、私たちは理解すべきだということを意味しているのだ。

三つ目に、アメリカ合衆国は、自国の国家経済を計画することができないことと同様に、世界全体の治安を維持、計画することなどできない。ソ連という超大国がなくなったので、様々な脅威が世界中で発生している。そこで、世界中の多くの人々は、私たちに次のことを望んでいる。世界中の民主主義と自己決定を守るために、また、テロリズム、薬物、そして環境破壊と言った、漠然として分散化した脅威に対して、私たちの持つ軍事力を見せ付けることを望んでいる。しかし、私たちの軍事力は、アメリカの自由と権威を守るために準備されている。アメリカは、世界にとっての警察官であり、かつソーシャルワーカーであることの用意などできていない。

四つ目に、私たちの冷戦下での同盟は、第二次世界大戦の破壊から復興し、同盟全体を守ることができた。しかし、ソ連はもはや、ヨーロッパに対しての脅威ではなくなっている。それどころか、ヨーロッパ連合(the European Union)の各国の総人口は、37千万人であり、総GDPは、年間7兆ドル(約750兆円)であり、総兵員数は200万人以上である。ヨーロッパ諸国は、アメリカの助けなしに、ヨーロッパを防衛することができ、セルビア紛争のような諸問題を解決することができる。韓国は、北朝鮮に比べ、2倍の人口と、18倍もの経済力を持っている。よって、韓国は、国防のために、私たちアメリカの兵員37千人を必要としていない。

五つ目に、情報伝達手段の爆発的発展は、政治指導者たちと市民たちとの間にある情報のアンバランスさを、かなり解消させている。国家指導者たちは、私たちと同様に、世界中の出来事、事件を、たいていの場合、CNNを通じて見ている。これは、国家指導者たちにとって、外交上の諸問題から、大衆を遠ざけることなどできないことを意味している。よって、国家指導者たちは、大衆からの支持を得られない場合には、対外関係を慎重に処理すべきだ、ということになる。

世界は、今だに、潜在的な脅威に満ちている。そして、政府の第一の目的は、市民の諸権利を守ることだ。私たちは、十分な国防力を維持しなければならない。しかし、特に、集団的安全保障に係わらないで、戦略的な独立政策の1つとして、外交政策を新しく位置づけるならば、アメリカにとっての重要な国益を、今の半分の軍事力で守ることができる。アメリカの軍隊は、今でも、100万人が現役で、軍務に就いている。私たちは、母国アメリカから遠く離れた場所に、合衆国の軍隊を駐留させることや、冷戦時代の高価な武器を廃止することができる。その一方で、私たちは、弾道弾迎撃防衛システム(antiballisticmissile defense system)を用いるといった、アメリカの市民を現実に守ることができる装備を購入すべきなのだ。

アメリカの兵員たちを帰国させ、アメリカ合衆国の防衛に専念させることを目的としているリバータリアンたちは、時に、「孤立主義者」(isolationist)という非難を受ける。これは、大きな考え違いである。リバータリアンたちは、真の「世界市民主義者」(cosmopolitan)である。私たちは、自由貿易、世界規模の情報伝達、そして文化交流によって、世界が活性化することを期待している。私たちは、軍事的な介入によって、その効果が弱めらると考えている。また、私たちは、多くの面で世界がより狭くなってきているが、世界全体を村とし、そこの村民たちが起こす、争いの全てを私たちの国アメリカが止めなければならないとする見方を不適切だと考えている。テロリズムと核兵器が存在する危険があふれた世界では、超大国が参戦して戦争を激化させるよりも、戦争規模を限定し、地域の中に限定させた方がより良いのである。

現代的な政策的諸問題についての徹底的な見方なるものは、政策分析の表層に関係することなどほとんどない。そして、多くの疑問は、明らかに解答を出されていない。しかしながら、リバータリアニズム的な政策分析のための枠組みは、はっきりとしたものであるべきだ。言い換えるならば、個人的自由(individual liberty)、自由市場(free markets)、そして制限された政府(limited government)は、多くの個性的な市民たちのニーズと選好に良く順応することができる、活気があり、ダイナミックな市民社会を創造するのだ。