日本語版への序文-D.Boaz「リバータリアニズム入門」より
日本で、本書『リバータリアニズム入門』が出版されることは、
現在の世界の二つの趨勢の顕著な兆候であろう。一つは、世界中の
人々が、お互いにさらに接近しあっていることである。もう一つ
は、戦争と国家統制の世紀であった二〇世紀が終わりつつある今、
人類の平和と自由についての諸観念が世界規模で拡大しつつあるこ
とである。
アメリカ国民は、とりわけそのなかでも私たちアメリカのリバー
タリアン(Libertarian)たちは、日本国民に以下の諸点で大きな
敬意を払っている。それは、日本人の備え持つ密接な家族関係、子
どもの教育への責務、個人責任の強固な自覚、平和で民主的な社
会、そしてこの五〇年間に、世界に物質面での進歩を与えた生産的
な企業家精神である。
日本人は、自分たちの成し遂げた経済的成功に対して大きな自尊
心を持つにふさわしい。現在アメリカやヨーロッパの保護貿易論者
たちから日本人は批判されている。しかし、国際的な経済競争を望
まない彼ら保護貿易論者に日本人を批判する資格はない。
ところが最近、日本とアジア諸国で起きている経済問題をとおし
て、日本の経済政策が欠点を抱えていることが明らかとなった。西
洋諸国と同じく、私有財産制と個人主体と自由市場に基礎を置く経
済体制は、健全な側面と共に、国家による資本投下の配分の統制の
行き過ぎと、アメリカ人の学者たちが「クローニー・キャピタリズ
ム」(仲間うちや人脈のつながりを重視するアジア的資本主義)と
呼んでいるものによる行き過ぎによって、今以上の発展が阻害され
ようとしている。これらの誤った政策は、通貨政策の改革が必要な
ことを示している。ただし、これらのことは、日本よりももっと他
のアジア諸国に強く言えることである。それから金融財政上の各種
サービス面での規制撤廃が必要である。日本の消費者(一般国民)
は、これまで必ずしも十分に経済成長の恩恵を受けてきたとは言い
難い。小売業の規制撤廃によって、日本の消費者は、高い生産性に
見合った生活水準を享受できるようになるだろう。しかし、それで
もなお、日本人が一世代三〇年もかからないで、劇的に生活水準を
向上させたことで示した日本の本当の到達度の凄さは軽視して済む
ことではない。それは、低い税率と自由貿易と法の支配に基づく公
平な社会の下で行われた真に生産的な事業活動によって達成された
のである。
リバータリアンの哲学は、私たち人類が、地球規模化した次の千
年に移行していこうとする今、日本に対して豊富な思考を提供する
だろう。ここで日本の読者の皆さんのなかから疑問が沸き起こるだ
ろう。「リバータリアニズム Libertarianism というのは、アメリ
カでだけ通用する思想ではないのか? あるいは少なくともヨー
ロッパを含めた西洋の思想ではないのか? リバータリアニズム
は、日本やアジアの人々の思考に適合するのだろうか?」と。
アジア諸国の国家指導者たちのなかに、西欧で育まれたリベラリ
ズム(自由主義思想)を批判して、それに取って代わるもう一つの
思想として、「アジア独自の価値観」(Asian values, エイジア
ン・ヴァリューズ)を提案する人々がいる。シンガポールの国家指
導者であるリー・クアン・ユー氏は、次のように発言した。「私た
ちの国は、アメリカで見られるような、個人の自由がすべてに優先
するリバータリアニズムの類を必要としない」。しかし、私がこの
本の第二章の冒頭で論じているように、個人が持つ諸権利、制限さ
れた政府、そして自由市場という価値観は、普遍的なのである。た
とえその多くが西洋世界で発見されたものであるとしても、科学
(学問)の諸原則は、普遍的なのである。
たとえば、数学と医学は、西洋的な観念であるとか、アジア人
は、どうせ科学(学問)研究には参加できないのだなどと今日主張
する人はもういないだろう。現在、リバータリアニズムとして知ら
れる現代の最新のリベラリズム思想は、確かに西洋世界で発達した
ものである。しかし、それは、今この地上のすべての人に語りか
け、理解されようとしている。
その一方で、これまでジョン・ロックやアダム・スミスの思想に
のめり込みすぎた私たち西洋人は、孔子や老子の思想の伝統を研究
してきたアジア人から多くのことを学ぶことができるだろう。老子
は「法や強制がないならば、かえって人々は、調和のなかで生きて
いくだろうに」と書き、「この調和は、競争のなかからおのずと生
まれるのだ」と説いた。この意味で老子は、世界で最も初期のリ
バータリアンであると考えられるのだ。同じような考えが、禅 Zen
の思想のなかにも見られる。それは、鈴木俊隆が書いた次の一節の
なかに見られる。
「羊や牛を上手に飼育する最良の方法は、自分の羊や牛に、大きく
て広い牧草地を与えることだ。このことは人間にも当てはまる。
人々のやりたいようにやらせ、彼らを見守りなさい。これが最良の
方法だ。彼らを無視して放ったらかしにすることは良くない。それ
は最悪の方法だ。二番目に悪いのは、彼らを管理しようとすること
だ。最高の方法は、彼らを見守ることである。彼らを管理しようと
はせずに、ただひたすら見守ることである」
今日、親密な家族関係や個人責任を重視するアジア人の考えは、
リバータリアンの思想の考えとより一致する。それに対して、ヨー
ロッパとアメリカ合衆国で広まっている、個人の無責任と、福祉を
受けるのは既得権であるという考え(a sense of entitlement)
と、ますます国家に依存しようとする不幸な傾向よりも、アジア人
の考え方のほうが、リバータリアンの政治哲学に適合しているので
ある。実際に、共に日本とアメリカは、現在ヨーロッパで失敗しつ
つある福祉国家理念やフランス独特の中央集権モデル(statist
model of France)から学ぶべきである。
リバータリアニズムは、時に、アメリカ国内においてさえも、現
実味のないラディカルな哲学だと考えられている。しかし、実際に
は、リバータリアニズムは、現代世界において最も基本的な哲学な
のである。すなわち、その内容は、自由、平等、個人の意欲、法に
よる支配、憲法によって制限される政府なのである。これらの観念
は、今やあまりにもありふれたものなので、私たちは、それらがか
つてどれほどラディカルな観念であったかをすっかり忘れてしまっ
ているのだ。私たちリバータリアンは、他のイデオロギーの支持者
たちよりも、もっと強くこのリバータリアニズムが掲げる原則が現
実の社会に適合することを知っている。しかも現代世界で、このよ
うなリバータリアンの態度を拒絶しようとする人々は、ほとんどい
ないはずなのである。
現代世界が示しつつある傾向は、ますますリバータリアンの価値
観とピッタリである。共産主義は文字通り消滅し、国家社会主義の
信奉者も、もうほとんどいない。東ヨーロッパの各国は、所有権
(個人財産権の保障)と自由市場と法による支配を基礎とした社会
を発展させようとして目下、奮闘中である。せめて中産階級のため
の福祉国家(Welfare state)を持続しよう、という考えさえも維
持できなくなりつつあり、近い 将来、根本からの改革を迫られて
いる。先進諸国の正直な観察者たちであれば、すでにこの事態を
はっきりと理解している。進行しつつある情報革命は、個人と少人
数のグループに力を与えつつあり、中央集権的な政府の権威は徐々
に弱まりつつある。
おそらく、このことが最も重要なことであろうが、ますますグ
ローバル化する経済において、さらに繁栄を望む国々は、中央集権
的でなく規制が撤廃された市場中心の経済モデルを採用せざるを得
ない。二一世紀には、世界市場という考えを避けることはいよいよ
不可能となる。もしある国が、この考えを避けようとするならば、
その国は、国際市場と技術の発達がもたらす驚くべき経済成長から
取り残されることになる。
おそらく、日本の読者の皆さんが、リバータリアニズムに興味を
持って本書をお読みになる理由は、きわめて簡単で、かつ実際的な
ものであろう。それは、リバータリアニズムが現代世界を動かしつ
つある思想であり、読者はそのことを知っているからだ。もう一つ
の理由は、リバータリアニズムの思想は、世界中のすべての国に対
して、平和と、経済成長と、そして社会的調和が約束されているの
だ、と考えていることである。私は、日本の読者の皆さんに、私た
ちアメリカのリバータリアンたちが実践している、国家権力を制限
すること、そして個人と、家族と、諸団体と、企業をより自由なも
のにするという運動に日本の皆さんが参加されることを希望する。
ワシントンDCにて
一九九八年三月一日
デイヴィッド・ボウツ